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JR飯田線長篠城駅から徒歩約8分
愛知県新城市長篠
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天正3年(1575年)の長篠の戦いの舞台となった城。応永15年(1508年)に菅沼元成が築いた山城で、武田勝頼の大軍に包囲された際、城将・奥平信昌がわずか500名の兵で決死の籠城を続けた。城を脱出して援軍を求め、捕らえられながらも「援軍来たる」と叫んで処刑された鳥居強右衛門の忠義の逸話で名高い。豊川と宇連川の合流点という天然の要害に位置し、現在は国の史跡に指定されて城跡公園として整備されている。
長篠城は、永正5年(1508年)に菅沼元成によって豊川と宇連川の合流する断崖上に築かれたと伝わる山城である。地形そのものを巧みに利用した天然の要害として、戦国期を通じて三河東部の要衝となった。永禄年間には今川氏・武田氏・徳川氏の勢力争いに巻き込まれ、城主が幾度か交代した。天正3年(1575年)、武田勝頼率いる約1万5千の大軍が城を包囲した際、城将・奥平信昌はわずか500名の兵で約15日間にわたる籠城を敢行した。この際、鳥居強右衛門が城を脱出して徳川・織田連合軍に救援を求めたが、帰途に武田勢に捕らえられ、「援軍来たる」と味方に叫んで処刑されたという忠義の逸話が今に語り継がれる。同年5月21日、設…
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1575年(天正3年)、愛知県新城市の設楽原において、織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼率いる武田軍を撃破した戦い。信長は三千挺ともいわれる鉄砲を有効活用した三段撃ちの戦術を駆使し、武田の精鋭騎馬隊を壊滅させた。この戦いは鉄砲による集団戦法が騎馬戦術を凌駕した画期的な合戦として近世軍事史の転換点とされる。武田方は山県昌景・馬場信春・内藤昌豊ら錚々たる将を失い、武田氏衰退の決定的な契機となった。長篠城址・設楽原決戦場跡は現在も保存されている。
天正3年(1575年)、長篠城が武田勝頼の大軍に包囲された報を受けた信長は、徳川家康と共に3万8千の援軍を送り込んだ。城将・奥平信昌の奮戦が援軍到着まで時を稼ぎ、信長の鉄砲戦術が武田軍を壊滅させた。長篠城の救援は信長の軍事的革新が世に示された歴史的な転換点である。
天正3年(1575年)、武田勝頼が長篠城を包囲した際、家康は織田信長と連合軍を組み救援に駆けつけた。5月21日の設楽原の戦いで武田軍を撃破し、奥平信昌が籠城する長篠城を救出した。この勝利が三河・遠江における家康の支配を盤石にする転機となった。
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