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JR河毛駅からバス約5分
滋賀県長浜市湖北町伊部
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浅井長政とお市の方(織田信長の妹)が暮らした北近江の山城で、悲劇の運命を辿った戦国屈指の名城。大永4年(1524年)に浅井亮政が築いたとされ、連郭式の縄張りを持つ難攻不落の山城として知られた。天正元年(1573年)、浅井・朝倉連合が信長と対立した末、総攻撃により落城。浅井長政・久政は自害し浅井氏は滅亡した。一方お市と三姉妹(茶々・初・江)は城から脱出し、茶々は後に淀殿として豊臣秀吉の側室となるなど、戦国時代の歴史を大きく動かした。国の史跡指定。
大永4年(1524年)、浅井氏の当主・浅井亮政が北近江の山岳地帯に小谷城を築いたとされる。連郭式の縄張りを採用した堅固な山城で、難攻不落の城として北近江支配の拠点となった。亮政の孫・浅井長政の代には、織田信長の妹・お市の方を正室に迎え、浅井・織田両氏の同盟が成立した。しかし元亀元年(1570年)頃から浅井・朝倉氏と信長との対立が深まり、姉川の戦いなど激しい合戦が繰り返された。天正元年(1573年)、信長による総攻撃を受けて小谷城は落城。父・久政と長政は城内で自害し、浅井氏は滅亡した。お市と三姉妹(茶々・初・江)は城外へ脱出し、後世の歴史に大きな影響を残した。落城後、城は廃城となった。明治以降に…
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1570年(元亀元年)、近江国姉川(現在の滋賀県長浜市)において、織田信長・徳川家康の連合軍が浅井長政・朝倉義景の連合軍と激突した野戦。家康率いる徳川軍は浅井軍の猛攻を受けながらも持ちこたえ、最終的に織田・徳川連合が勝利を収めた。家康はこの戦いで奮戦し、自軍の窮地を救う重要な役割を果たした。信長にとっては背後の脅威であった浅井・朝倉勢に打撃を与えた重要な戦いであり、近江支配強化の足掛かりとなった。姉川古戦場跡には石碑が建立されている。
1573年(天正元年)、織田信長が浅井長政の居城である小谷城(現在の滋賀県長浜市)を攻め、浅井氏を滅亡させた戦い。長政の妻はお市の方(信長の妹)であり、三姉妹(茶々・初・江)を残して長政は自刃した。同年に朝倉氏も滅亡し、信長は近畿の安定を確保した。小谷城は難攻不落の山城として知られ、信長は秀吉(木下秀吉)を総大将として包囲・攻略させた。この戦いで功績を挙げた秀吉は後に長浜城主となり、のちの豊臣政権への足掛かりを得た。城跡は現在国の史跡に指定されている。
浅井長政は先祖が築いた小谷城を居城とし、北近江の支配を確立した。永禄10年(1567年)に織田信長の妹・お市の方と婚姻し同盟を結んだが、元亀元年(1570年)に信長と決裂。以来3年にわたり朝倉氏と共に信長に対抗し続けたが、天正元年(1573年)9月に城内で自害した。享年28。「義を重んじた悲劇の武将」として今も多くの人に慕われる。
天正元年(1573年)、信長は浅井長政が籠もる小谷城を包囲。姉川の戦いから3年を経て総攻撃をかけ、浅井氏を滅亡させた。妹お市の方と三姉妹(茶々・初・江)は城から救出されたが、長政とその父・久政は自害。信長にとって肉親の情と覇業を秤にかけた苦渋の戦いであった。
小谷城攻略で功績をあげた羽柴秀吉は、信長から旧浅井領の北近江を与えられた。秀吉は小谷城を廃して琵琶湖畔に長浜城を新築(1573年)し、これが秀吉にとって初めての城持ち大名としての出発点となった。長浜は秀吉が初めて城主として腰を落ち着けた地である。
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