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新府城跡
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新府城跡
山梨県
創建
1581
種別
アクセス
JR中央本線新府駅から徒歩約15分
山梨県韮崎市中田町中条2764
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基本情報
創建 1581
445年目
概要
韮崎市中田町中条に位置する戦国時代末期の城跡で、国の史跡に指定されている。天正9年(1581年)、武田氏最後の当主・武田勝頼が甲府の躑躅ヶ崎館から本拠を移すために築城した近世的構造を持つ城で、馬出しや丸馬出しなどの高度な築城技術が見られる。しかし築城からわずか数か月後、織田信長の侵攻を前に勝頼は城に火を放って退去し、天正10年(1582年)に武田氏は滅亡した。未完の城として短期間しか使われなかったにもかかわらず、土塁・空堀・曲輪などの遺構が良好に残されている。
由緒
天正9年(1581年)、武田氏最後の当主・武田勝頼は、甲府の居館であった躑躅ヶ崎館から本拠を移すべく、韮崎の七里岩台地上に新府城の築城を開始した。城は馬出し・丸馬出しといった近世的な高度な築城技術を取り入れた構造を持ち、当時の最先端の縄張りが施されたとされる。しかし翌天正10年(1582年)2月、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐が始まると、勝頼は家臣団の離反が相次ぐなかで城に火を放ち、岩殿城(大月市)を目指して退去した。完成を見ぬまま焼き捨てられた城は、そのまま廃城となった。同年3月、勝頼は天目山(甲州市)で自刃し、武田氏は滅亡した。江戸時代以降は遺構が地中に埋もれながらも保存され、明治…
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武田信玄とのつながり
新府城は武田信玄の孫・勝頼が天正9年(1581年)に築いた城で、信玄が本拠とした躑躅ヶ崎館に代わる新たな甲斐の中枢として計画された。高度な築城技術は信玄時代に蓄積された武田氏の土木・軍事技術の集大成でもあった。しかし信玄の死後に急速に失われた求心力の中で、勝頼はこの城を自ら焼いて滅亡の道を歩んだ。信玄が遺した武田氏の栄光と崩壊の象徴として歴史に刻まれた城跡である。

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