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北条義時の墓(法華堂跡)
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北条義時の墓(法華堂跡)
神奈川県
創建
1224
種別
史跡
アクセス
JR鎌倉駅東口から徒歩20分
神奈川県鎌倉市西御門2丁目(法華堂跡東側)
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基本情報
史跡
創建 1224
802年目
概要
鎌倉幕府二代執権・北条義時の墓所。元仁元年(1224年)に62歳で急逝した義時は、源頼朝の法華堂跡のすぐ東側に葬られた。承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇の討幕計画を退け、執権政治の基盤を盤石に固めた。姉・北条政子と共に武家政権の礎を築いた人物として、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも脚光を浴びた。2005年の発掘調査で大規模な堂宇跡が確認され、国指定史跡となっている。鎌倉駅東口から徒歩約20分。頼朝墓と同じ丘に鎮まる。
由緒
1224年に62歳で亡くなった義時の墓所。法華堂跡(源頼朝法華堂)のすぐ東側にある。2005年の発掘調査で大規模な堂宇の跡が確認され、国指定史跡となっている。

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1205
北条義時の執権就任
1205年(元久2年)、北条義時が二代執権に就任した。初代執権・父の北条時政が政子・義時らに追放された牧氏事件(1205年)の直後、義時が執権の地位を継いだ。義時は実朝将軍を擁しながら幕府の実権を掌握し、有力御家人の排除(比企能員の変・畠山重忠の乱など)を経て、北条氏による執権政治の基盤を固めた。1221年の承久の乱では後鳥羽上皇を打倒して朝廷への支配を確立し、武家政権の事実上の最高権力者となった。義時の執権政治は鎌倉幕府の黄金期を作り上げた。
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1221
承久の乱
1221年5月、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発して起こした討幕の乱。朝廷方は畿内・西国の武士を集めたが、鎌倉の北条政子が御家人たちに頼朝の恩を説いて結束を呼びかけ、幕府軍は総勢十九万ともいわれる大軍で京都へ進撃した。朝廷軍は美濃の宇治川・木曽川などの防衛線を突破され、わずか一ヶ月で京都が陥落。後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ配流され、仲恭天皇は廃位された。この乱の後、幕府は京都に六波羅探題を設置し朝廷を監視下に置いた。武家政権が朝廷を完全に支配下に置いた日本史の一大転換点。
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1221
承久の乱後の朝幕関係
1221年の承久の乱での幕府勝利後、北条政子・義時が行った朝廷支配の制度化。後鳥羽上皇は隠岐へ配流され、順徳・土御門両上皇も流罪となった。仲恭天皇は廃位され、後堀河天皇が即位した。幕府は京都に六波羅探題を設置して朝廷を監視下に置き、西国の御家人を直接支配するようになった。さらに幕府は天皇の任免に事実上の影響力を持つようになり、武家政権が公家政権を完全に従属させる体制が確立した。この転換は日本の権力構造を根本的に変えた歴史的事件であり、武家政権700年の基礎を固めた。
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源頼朝とのつながり
頼朝の法華堂跡のすぐ東隣に義時の墓がある。義時は頼朝の妻・政子の弟として幕府創設を支えた重臣。頼朝没後は二代執権となり、承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇の討幕計画を退けて武家政権を磐石にした。頼朝と同じ丘に葬られたことが、その深い主従の絆を今に伝える。

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