永禄元年(1558年)、尾張国で蜂須賀正勝(小六)の嫡男として生まれた。母は大匠院(松姫)。初め織田信長に仕え、天正3年(1575年)頃からは父とともに羽柴秀吉の家臣となり、黄母衣衆として長篠の戦い等で戦功を挙げた。中国攻めや四国攻めにも従軍し武功を重ねた。天正13年(1585年)の四国征伐後、秀吉は阿波一国を父・正勝に与えようとしたが、正勝が固辞したため、代わって家政が阿波18万石余の大名となった。同年6月に阿波へ入国した家政はまず堅固な山城・一宮城に入ったが、阿波全域の統治や水軍の展開には不向きと判断し、吉野川河口の三角州に新たに徳島城の築城を開始、翌天正14年(1586年)に完成させて本拠を移した。あわせて祖谷山一揆や他領からの侵攻に備え、一族・重臣を配した支城網「阿波九城」を整備し、領国支配の基盤を固めた。関ヶ原の戦いでは家督を子・至鎮に譲って隠居の身であったが、東軍勝利に貢献し阿波一国が安堵された。茶人としても千利休と親交を結び、伊達政宗からは老獪さを称して「阿波の古狸」と評されたと伝わる。寛永15年12月30日(1639年2月2日)、81歳で没した。