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PERSON
歌川広重
歌川広重
浮世絵師・東海道五十三次の作者
1797-1858 · 享年 61歳
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生涯
江戸八代洲河岸(現東京都中央区)に幕府定火消の与力・安藤重右衛門の嫡男として生まれる。本名は安藤重右衛門(後に徳太郎)。幼少期に両親を相次いで失い、13歳で家督を継いで与力職を務めながら絵師を目指した。1811年ごろ歌川豊広に入門して浮世絵の技法を習得し、「広重」の号を得た。1830年代初頭に天覧(将軍に随行した上洛旅行)に加わったことが、その後の「東海道五十三次」創作の直接の契機となった。1833年に刊行が始まった「東海道五十三次」は55枚(序文・跋文を含む)の連作で、日本各地の風景を叙情的に描いたことで大ヒットとなった。その後も「木曾街道六十九次」「名所江戸百景」など多くの名作シリーズを生み出した。晩年には与力職を甥に譲り絵師に専念した。1858年にコレラで急死し、61歳で没した。葬儀は浅草の東岳寺で行われた。
人物像
旅への深い愛着と自然の移ろいへの繊細な感受性を絵に凝縮した。雨・雪・霧・夕暮れなど大気の表現において当代随一であり、「広重の雨は濡れる」と称された。葛飾北斎が人物や動きの力強さで知られたのに対し、広重は季節と情感の詩人として対照的な存在感を持っていた。
歴史的意義
「東海道五十三次」をはじめとする浮世絵は19世紀後半にヨーロッパへ渡り、ジャポニスムの旗手としてモネ・ゴッホ・ホイッスラーら印象派・後期印象派の画家たちに多大な影響を与えた。ゴッホは広重の「亀戸梅屋敷」「大はしあたけの夕立」を油彩で模写している。現代でも世界中の美術館に浮世絵コレクションが所蔵され、日本美術の国際的評価の礎となっている。
逸話・エピソード
「東海道五十三次」——広重の雨と霞が日本版画に革命をもたらした
歌川広重は1833〜34年に「東海道五十三次」を発表し、雨・霞・雪など天気や季節の変化を繊細に表現した風景版画で一世を風靡した。「大はしあたけの夕立」「亀山雪晴」など名作は後世の芸術家に多大な影響を与え、ゴッホ・モネら印象派の画家にもジャポニズムとして影響を与えた。江戸の風景・旅・庶民生活を描いた作品は、江戸文化の記録としても貴重である。
関連する歴史的事件
1810
化政文化(爛熟の江戸町人文化)
19世紀前半、文化(1804-1818)・文政(1818-1830)年間を中心に江戸の町人を担い手として爛熟した文化。元禄文化が上方中心だったのに対し、化政文化は江戸が中心。退廃的・享楽的・写実的傾向が強く、幕末の動乱を予感させる爛熟期。浮世絵では葛飾北斎『富嶽三十六景』(1831年頃・神奈川沖浪裏)、歌川広重『東海道五十三次』(1833年)、喜多川歌麿(美人画)、東洲斎写楽(役者絵)が世界的な風景画・肉筆画の水準に到達、後にジャポニスムの起爆剤となった。文学では滝沢馬琴『南総里見八犬伝』(1814-1842年、全106冊)、十返舎一九『東海道中膝栗毛』、式亭三馬『浮世風呂』、為永春水の人情本、小林一茶の俳諧。蘭学も発達し伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』(1821年)。
ゆかりの地 — 4
琵琶島神社
神奈川県
歌川広重は天保年間(1830年代)に「金沢八景」8枚揃物を制作し、この琵琶島と瀬戸神社周辺の秋の月夜の風景を「瀬戸秋月」として描いた。広重の浮世絵は江戸の人々に金沢の美しさを広く伝え、金沢八景の名を全国に知らしめた。
妙法寺
神奈川県
初代・三代の歌川広重がともにこの妙法寺の梅林を描いた。三代広重は安政元年(1854年)に「光名所 杉田の梅」を源氏物語各帖名を借りる「源氏名所」の形式で制作した(神奈川県立歴史博物館所蔵)。初代広重は安政3年(1856年)頃の「名所江戸百景」第111景「杉田梅林」で、夕暮れの空を背景に白梅が咲き誇る幻想的な風景と梅見を楽しむ人々を描いた。これらの作品が杉田梅林の名声を全国に広めた。
杉田八幡宮
神奈川県
歌川広重は安政3年(1856年)頃の連作「名所江戸百景」において杉田の梅林を描いた。この八幡宮が鎮座する杉田一帯は、江戸時代には3万本を超える梅の木が咲き誇る関東随一の梅の名所として知られ、春になると江戸から多くの観梅客が舟や徒歩で訪れた。広重の浮世絵は梅花の幻想的な美しさを捉え、杉田梅林の名声を全国に広めた。
金龍院
神奈川県
歌川広重は天保7年(1836年)頃、「武州金沢八景」として金沢の景勝を8枚の大判錦絵に描いた。金龍院の九覧亭は金沢八景を一望できる名所として広重をはじめ多くの浮世絵師の題材となった。
─ 完 ─
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