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PERSON
今川義元
今川義元
海道一の弓取り
1519-1560 · 享年 41歳
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生涯
1519年、駿河今川氏の第10代当主・氏親の三男として生まれた。長兄の死により今川家11代当主となり、名参謀・太原雪斎の補佐のもとで天文法華の乱や花倉の乱などの内憂を鎮め、政権を安定させた。今川仮名目録の追加法を制定して家中の秩序を整え、優れた内政・法制を実現した。軍事面では武田信玄・北条氏康と「甲相駿三国同盟」を結び背後を固め、東海道の駿河・遠江・三河三国を完全に支配。「海道一の弓取り」と称された。徳川家康の父・松平広忠の後ろ盾として三河にも強い影響力を持ち、若き日の家康は人質として今川の下に過ごした。1560年5月、上洛を旗印に約2万5千の大軍を率いて西進。尾張に入ったところで桶狭間(愛知県豊明市付近)において、豪雨をついた織田信長の奇襲を受けて首級を取られた。享年42歳。この桶狭間の奇跡的な勝利が信長の天下統一への出発点となった。後世「おかわいそうな義元様」という言葉に象徴されるが、近年は傑出した名君として再評価が進んでいる。
人物像
公家文化を好み京風の化粧をしていたとされるが、これは後世の脚色が多い。実際には政治・軍事に優れた名君であり、今川領の繁栄は「東海の太平」と呼ばれた。
歴史的意義
桶狭間の敗死により「油断の武将」という負のイメージが長く付きまとったが、近年は優れた領国経営者として再評価が進んでいる。信長の天下統一の出発点を作った人物としても歴史的に重要。
逸話・エピソード
桶狭間の奇襲——海道一の弓取りの最期
1560年5月、今川義元は約2万5千の大軍を率いて上洛の途につき尾張に入った。信長の軍勢は2千程度に過ぎなかった。信長は豪雨の中を奇襲し義元の本陣を急襲。義元は服部一忠・毛利良勝に討ち取られ42歳で戦死した。この桶狭間の戦いは日本史最大の下克上の一つとして語り継がれ、信長の天下統一への出発点となった。義元は近年、優れた法制と内政を整えた名君として再評価が進んでいる。
ゆかりの地 — 13
駿府城
駿府城の前身である今川館(館跡)はもともと今川氏の本拠地であった。義元はここを拠点に東海一の大名として君臨し、幼少の竹千代(家康)を人質として駿府に置いた。1560年に義元が桶狭間で討たれると今川氏の支配は崩れ始め、駿府は後に家康の本拠となった。
掛川城
掛川城は今川氏親が1497年頃に朝比奈泰煕に命じて築かせた城であり、今川氏の遠江支配の拠点として機能した。義元はこの城を遠江統治の要として重視し、義元の権勢下で掛川城下は繁栄した。義元が桶狭間で倒れると今川氏の遠江支配も揺らぎ始めた。
龍潭寺
静岡県
井伊谷は今川氏の支配下にあり、井伊家は今川氏に臣従していた。龍潭寺は井伊家の菩提寺として今川支配下の遠江で重要な役割を担い、義元の勢力圏の寺院として機能した。桶狭間後に今川氏の支配が弱まると、井伊家もその影響を受けた。
西来院
静岡県
家康の正室・築山殿(瀬名姫)はもともと今川義元の姪にあたる。駿府で人質生活を送っていた家康と、今川家中で結ばれた婚姻であり、この寺に眠る築山殿の存在は義元と家康の複雑な主従・縁戚関係を象徴している。
興国寺城跡
静岡県
北条早雲は当初、今川氏の客将として興国寺城に入城した。後の今川義元の祖父にあたる今川義忠の死後の混乱を早雲が収め、その功績によって今川氏からこの城が与えられた。義元の今川氏と早雲・後北条氏の関係はこの城から始まった。
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─ 完 ─
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