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PERSON
水野勝成
水野勝成
鬼日向・福山藩初代藩主
永禄7年〜慶安4年(1564-1651) · 享年 87歳
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生涯
永禄7年(1564年)、三河国刈谷城主・水野忠重の嫡男として生まれた。徳川家康の従弟にあたる名門の出だが、その気性は荒く、16歳の初陣で敵15人を斬り倒した。小牧・長久手の戦いでは猛将・森長可(鬼武蔵)を討ち取る大金星を挙げた。しかし20歳の時、父の家臣を斬殺して勘当され、以後15年にわたり諸国を放浪。豊臣秀吉・黒田官兵衛・加藤清正ら名だたる大名に仕えては去ることを繰り返した。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いを前に家康のもとへ帰参し父とも和解。東軍として関ヶ原で奮戦し「鬼日向」の異名を得た。元和元年(1615年)の大坂夏の陣では52歳にして後藤又兵衛を討ち取るなど活躍。戦後、備後国福山に10万石を与えられ、福山城を築城。城下町の整備・新田開発・治水事業に尽力し「仏の水野」と慕われた。寛永14年(1637年)には75歳で島原の乱の鎮圧にも出陣。慶安4年(1651年)、88歳で没した。
人物像
若き日は制御不能な暴れん坊で、父にすら手に負えなかった。戦場では鬼神と恐れられる一方、藩主となってからは驚くほど慈悲深い善政を敷いた。型破りで自由奔放、しかし根底には武士としての誇りと民への愛情を持つ、戦国時代きっての異端児。
歴史的意義
福山藩初代藩主として福山城を築き、城下町の基盤を整えた。新田開発・治水事業・街道整備など、領民の生活向上に尽力し「仏の水野」と称えられた。その生涯は「倫外不羈」——常識の枠に収まらない規格外の人物として後世に語り継がれている。
逸話・エピソード
喧嘩大名・天下無双——諸国放浪した猛将が大坂の陣で返り咲く
水野勝成は若い頃に父・忠重と口論の末に家出し、以後全国を放浪して各地の合戦に傭兵・浪人として参加した。この放浪生活で50人以上を手にかけたとも伝わる「喧嘩大名」「天下無双の武者」の異名を持つ。やがて従弟・徳川家康に帰参して重用され、関ヶ原(1600年)では東軍として活躍した。大坂夏の陣(1615年)では道明寺の戦いで後藤基次(又兵衛)と対峙し、真田幸村が奮戦した天王寺口でも奮戦した。晩年は備後福山藩10万石の初代藩主として善政を行い、1651年に85歳の長命を全うした。
ゆかりの地 — 3
島原城
寛永15年(1638年)、75歳の水野勝成は島原の乱鎮圧のため出陣。息子や孫に支えられて戦場に赴いたが、到着するとその闘争心は健在であった。兵糧攻めを主張する幕府軍に対し「さっさと力攻めでぶっ飛ばせ」と一喝し、的確な攻撃指揮で膠着していた戦況を一変させた。戦後、一揆軍を「ただの農民」として処理した幕府に憤り、「信念を貫いて戦った英雄を愚弄するな」と抗議して隠居を決意した。
福山城
元和5年(1619年)、大坂の陣での大功により備後10万石を賜った水野勝成は、元和8年(1622年)に福山城を築城した。「鬼日向」と恐れられた猛将であったが、藩主としては日本最大規模の上水道工事を成功させ、新規移住者への住民税免除で人口を飛躍的に増加させるなど名君ぶりを発揮。若き日に破壊した寺社の再建にも尽力し、領民から「仏の水野」と慕われた。宮本武蔵も客分として滞在し、息子のボディガードを務めたと伝わる。
刈谷城跡(亀城公園)
愛知県
水野勝成は刈谷水野家の嫡男として生まれた。16歳の初陣で15人を討ち取る大活躍を見せるも、父・忠重の金を盗もうとして発覚し、告げ口した家臣を斬殺。ついに父から勘当され「奉公構」(仕官禁止のブラックリスト)に指定された。以後15年間の放浪生活を送り、豊臣秀吉・黒田官兵衛・加藤清正ら名だたる大名に仕えては問題を起こし出奔を繰り返した。
─ 完 ─
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