承久3年(1221年)、後鳥羽上皇の挙兵に動揺する御家人たちを前に、政子は「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍の恩は既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し」と涙ながらに訴えた。この演説により御家人たちは結束し、幕府軍19万騎が京へ進軍して朝廷軍を壊滅させた。一人の女性の言葉が国家の命運を変えた日本史上最も有名な演説。
承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を出して挙兵した。動揺する御家人たちを前に、政子は涙ながらに「故右大将軍(頼朝)の恩は山よりも高く海よりも深い。この恩に報いるのか、院に味方するのか」と訴えた。この演説により御家人たちは一致団結し、幕府軍19万騎が京を攻め、わずか1ヶ月で朝廷軍を壊滅させた。一人の女性の言葉が国家の命運を変えた、日本史上最も劇的な瞬間の一つ。
政子は伊豆の流人であった源頼朝と恋に落ちたが、父・時政は平家全盛の時代に頼朝との結婚を許さなかった。時政は政子を伊豆目代・山木兼隆のもとに嫁がせようとしたが、政子は祝言の夜に屋敷を抜け出し、嵐の中を裸足で走って頼朝のもとへ駆けつけたと伝わる。この情熱的な駆け落ちは後に鎌倉幕府成立の出発点となった。もし政子が嵐の夜に走らなければ、鎌倉幕府は存在しなかったかもしれない。
頼朝が愛妾・亀の前を寵愛していることを知った政子は、激怒して牧宗親に命じ亀の前の邸宅を焼き払わせた。報告を受けた頼朝は激怒して牧宗親を処罰したが、政子は全く反省しなかったという。この事件は当時の貴族社会では異例の振る舞いで、政子の激しい気性を象徴するエピソードとして『吾妻鏡』に記録されている。愛する夫への嫉妬心と、侮辱を許さない強烈な自尊心が表れた一幕。
二人の息子を失う悲劇 — それでも幕府を守り続けた母
建仁3年(1203年)、長男・頼家は比企の乱の後に将軍職を剥奪され伊豆・修善寺に幽閉、翌年暗殺された。建保7年(1219年)、次男・実朝は鶴岡八幡宮で甥・公暁に暗殺された。二人の息子を政治の犠牲にしながらも、政子は個人の悲しみを抑え幕府の存続を最優先にした。実朝暗殺の翌日には後継将軍の人選に着手し、京から藤原頼経を迎えて幕府体制を維持した。「国母」として最後まで鎌倉を守り抜いた姿は、武士の世の始まりを象徴する。