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PERSON
大久保利通
大久保利通
維新三傑・近代日本の設計者
1830-1878 · 享年 48歳
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生涯
幕末・明治の薩摩藩士・政治家。西郷隆盛とは幼馴染みで、ともに倒幕・維新運動を主導した。明治政府では内務卿として実質的な最高権力者として辣腕を振るい、廃藩置県・地租改正・殖産興業政策など近代国家の制度整備を強力に推進した。1871-1873年の岩倉使節団に副使として同行し、欧米の近代国家制度を視察・研究した。帰国後、西郷ら征韓論者との政争(明治六年政変)に勝利し、実力者として政権を掌握した。強引な中央集権化と不平士族への強硬対処が反発を生んだ結果、1877年の西南戦争では旧友・西郷と対決。西郷の死後まもない1878年、士族の紀尾井坂の変で暗殺された。享年49歳。「東洋のビスマルク」とも称された。
人物像
冷酷なまでに現実主義的で意志の強い権力者。感情よりも国家の論理を徹底的に優先し、旧友・西郷との対立も厭わなかった。その一方で日本の近代化・国際的地位向上への情熱は本物であり、強引な方法ながら近代国家の骨格を作り上げた。
歴史的意義
廃藩置県・地租改正・殖産興業など大久保が主導した政策は近代日本の経済・行政の基盤を形成した。内務省の設立は明治以降の中央集権行政の中枢となった。鹿児島市の大久保利通像は郷里の英雄として今も多くの人が訪れる。
逸話・エピソード
廃藩置県と内務省設立——「東洋のビスマルク」の冷徹な中央集権
大久保は1871年の廃藩置県を主導し、300近い藩を一気に廃止して府県制を敷いた。この強引とも言える中央集権化は旧大名・士族の強い反発を招いたが、大久保は毅然として推し進めた。さらに1873年に内務省を設置して初代内務卿に就任し、行政・警察・産業・地方行政を一元管理する強力な機関を作り上げ、近代国家の骨格を形成した。
紀尾井坂の変——旧友・西郷の死の翌年に刺客に倒れる
1877年の西南戦争で幼馴染みの西郷隆盛と対立し、西郷の死を見届けた大久保は、その翌年1878年5月14日、赤坂の紀尾井坂において石川県の不平士族ら6名に馬車ごと襲われ暗殺された。享年49歳。死後に整理された遺産はほとんどなく、近代国家建設に私財まで注ぎ込んでいたことが判明した。「東洋のビスマルク」と称えられた明治政府最大の実力者は、志半ばで凶刃に倒れた。
関連する歴史的事件
1862
生麦事件
文久2年(1862年)8月21日、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)で、薩摩藩島津久光の行列を乱したイギリス商人4名が薩摩藩士に斬殺・負傷させられた事件。幕末の攘夷運動を象徴する国際事件として知られる。勅使・大原重徳を警護して江戸から京都へ向かう途中だった久光の行列に、横浜居留地から乗馬で遠乗りに出ていたイギリス人リチャードソンら4名が遭遇。日本の慣習を知らなかった彼らが行列の中を馬で横切ろうとしたところ、無礼討ちとして奈良原喜左衛門らが斬りかかり、リチャードソンが死亡、他2名も重傷を負った(女性1名は無傷)。これに激怒した英国は幕府に10万ポンド、薩摩藩に犯人引き渡しと2万5千ポンドの賠償を要求。幕府は賠償に応じたが薩摩藩は拒否し、翌1863年7月の薩英戦争(鹿児島砲撃)へと発展した。この戦争で薩摩は英国海軍の近代兵器の威力を痛感し、従来の攘夷論から開国・富国強兵・倒幕路線へと大転換。生麦事件は日本の近代化と明治維新への重要な契機となった。
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ゆかりの地 — 4
照国神社
鹿児島県
大久保は西郷と共に斉彬に見出された家臣。斉彬の近代化の志を受け継ぎ、維新後の殖産興業政策として開花させた。斉彬なくして大久保の飛躍はなかった。
南洲墓地
西南戦争後、大久保は盟友・西郷の死を深く悼んだとされる。幼馴染として育ち、共に維新を成し遂げながら敵味方に分かれた二人の悲劇は、この墓地で今も静かに語り継がれている。
大久保利通像
甲突川河畔の加治屋町に生まれた大久保は、同じ町内の西郷隆盛と幼馴染として育った。共に島津斉彬に見出され、明治維新を成し遂げたが、征韓論で袂を分かち、西南戦争で敵味方に分かれた。近代国家建設に生涯を捧げ、紀尾井坂で暗殺された大久保の功績をこの銅像が伝える。
紀尾井坂(大久保暗殺の地)
明治11年5月14日、馬車で出勤途中の大久保は紀尾井坂で6名の刺客に襲われ絶命した。暗殺犯の島田一郎らは西南戦争での西郷の死への復讐を動機とした。大久保の死により維新三傑は全員がこの世を去り、明治初期の政治は大きな転換点を迎えた。
─ 完 ─
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