蓮如(本願寺第8世)は平易な文語で教義を説いた「御文(おふみ)」を全国の門徒に送り、浄土真宗を民衆の間に爆発的に広めた。「おひとりもおかせ給わず」の平等の救済観は農民・商人に熱狂的に受け入れられ、「加賀の一向一揆」など一向宗門徒による政治的実力行使(一向一揆)の精神的支柱となった。本願寺を関東から大坂(石山本願寺)へ移し、全国最大の宗教勢力に育てた。
御文(おふみ)——識字率の低い民衆に届いた革命的な手紙
蓮如が生涯に著した「御文(御文章)」は現存するものだけで221通を数える。難解な漢文・梵語で書かれていた従来の仏教テキストと異なり、蓮如は平仮名混じりの平易な和文で書き、「南無阿弥陀仏を称えれば誰もが往生できる」という教義を農民や商人にも理解できる言葉で説いた。御文は道場で門徒を集めて読み聞かせる「御文拝読」の形で広まり、字が読めない者でも教えに触れられた。特に有名な「白骨の御文」(「それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり」)は今も真宗の葬儀で読まれる。活版印刷以前にこれだけの「ベストセラー」を生み出したことは、日本宗教史上の革命的事件だった。
1465年(寛正6年)1月、比叡山延暦寺の西塔衆徒が「本願寺の教えは無碍光宗なる邪義にして仏敵なり」として大谷本願寺に襲撃をかけた。堂舎は破却され、蓮如は親鸞の御真影を抱えて命からがら脱出。近江の堅田・金森などの門徒宅に匿われ、時には漁師の家に身を潜めて延暦寺の追っ手から逃れたと伝わる。この逃亡生活は6年近く続き、蓮如は各地の門徒ネットワークの結束力を実感するとともに、本願寺再興の執念を固めた。1471年に越前吉崎へ移って北陸布教を開始するのは、この法難からの起死回生だった。破壊されたはずの教団が、追われた地で逆に爆発的に成長するという皮肉な逆転劇が、ここから始まる。
蓮如は生涯に五度結婚し、27人(男子13人・女子14人)の子をもうけた。最初の妻・如了尼を39歳で亡くした後、蓮祐尼、如勝尼、宗如尼、蓮能尼と次々に迎えた。これは単なる多産ではなく、教団組織化の戦略でもあった。子らは各地の有力寺院の住持に配されたり、国人領主・公家・他派寺院に嫁がされたりして、全国に本願寺の血縁ネットワークを張り巡らせた。五男・実如は本願寺第九世として本山を継ぎ、七男・蓮悟は加賀若松本泉寺を継いで加賀一向一揆の拠点となり、娘たちは朝倉・畠山・細川など有力家門に嫁いだ。この「親鸞の血脈を各地に分配する」戦略により、本願寺は単なる寺院ではなく、全国を覆う宗教・政治・経済の巨大コングロマリットとなった。