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大阪府大阪市中央区大阪城(大阪城公園内)
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戦国時代最強の宗教勢力・一向宗の本拠地。蓮如が明応5年(1496年)に創建した大坂御坊を起源とし、顕如の代には「石山御坊」として全国の門徒を統率する巨大要塞寺院となった。織田信長との石山合戦(1570-1580)で10年にわたり抗戦し、信長の天下統一を最も長く阻んだ「第六天魔王の宿敵」として知られる。天正8年(1580年)の講和後、顕如は自ら火を放って退去した。跡地には豊臣秀吉が天正11年(1583年)から大坂城を築城。現在の大阪城公園内に当時を偲ぶ碑がある。雑賀衆の鉄砲隊が籠城戦を支え、加賀一向一揆や長島一向一揆と連動した全国的な宗教戦争の中心地でもあった。上町台地の北端に位置し、淀川と大和川に挟まれた天然の要害を活かした立地が難攻不落を可能にした。石山合戦は日本史上最長の籠城戦の一つに数えられる。信長が最も手を焼いた相手は武田でも上杉でもなく、この本願寺であったと評される。
明応5年(1496年)、蓮如が隠居の地として大坂の上町台地北端に大坂御坊(石山御坊)を創建。これが石山本願寺の起源となった。大永5年(1525年)頃、本願寺の本拠は山科本願寺にあったが、天文元年(1532年)の山科焼き討ちを受けて10世証如の代に石山へ本拠が移された。11世顕如の代には全国の一向宗門徒を統率する巨大要塞寺院へと発展し、堀と土塁で囲まれた寺内町は数万の人口を擁した。元亀元年(1570年)、信長の退去要求に対し顕如は諸国の門徒に蜂起を呼びかけて挙兵、ここに10年におよぶ石山合戦が始まる。雑賀衆の鉄砲隊や毛利水軍の兵糧援助を受けて抗戦を続けたが、第二次木津川口の戦いでの敗北と包囲網の…
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1570年から1580年までの10年間続いた、織田信長と石山本願寺(顕如)の戦争。信長の天下統一事業の中で最も長く抵抗した勢力であった。大坂湾に面した石山本願寺(現在の大阪城の位置)は要害堅固な城塞と化し、毛利氏の海上補給、雑賀衆の鉄砲、全国の本願寺門徒の結束を背景に、信長軍を10年にわたり苦しめ続けた。1576年の第一次木津川口の戦いでは毛利水軍・雑賀衆が織田水軍を大破。1578年の第二次木津川口では九鬼嘉隆の鉄甲船により形勢逆転したが、なお本願寺は持ちこたえた。最終的に1580年、正親町天皇の勅命による和睦で終結し、顕如は石山を退去した。しかし長男・教如は徹底抗戦を主張し父と袂を分かつ。この家族内対立は、後の1602年の東西本願寺分裂に繋がる伏線となった。
下間頼廉は本願寺坊官の名門・下間家に生まれ、11世顕如に仕えて石山本願寺の軍事総指揮を執った名軍略家である。元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)に及ぶ石山合戦では、雑賀衆の鉄砲隊や毛利水軍との連携を巧みに組み立て、本願寺を10年にわたって不落の要塞として維持した。織田信長の度重なる攻勢、包囲網、第一次木津川口の勝利、第二次木津川口での敗北に至るまで、防衛戦略の中枢に常に頼廉がいた。「紀州の雑賀と大坂の頼廉、この二人あって石山は落ちず」と評された名将で、石山退去後も顕如・教如の側近として本願寺教団を支え続けた。本能寺の変後は秀吉・家康とも交渉し、本願寺分立の過程にも深く関与した。
明応5年(1496年)、本願寺8世蓮如は85歳の最晩年に、大坂の上町台地北端に大坂御坊(石山御坊)を創建した。山科本願寺を嫡男・実如に譲り隠居の地として選んだこの庵が、後に全国の一向宗門徒を統率する石山本願寺へと発展する。蓮如は翌年にかけて御影堂などを整備し、明応8年(1499年)に山科で入寂するまでこの地を重視した。蓮如にとって人生最後の大事業であり、「摂州東成郡生玉之庄内大坂」として門徒に書き送った書状が残る。
元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)の石山合戦において、雑賀孫市率いる雑賀衆は石山本願寺の主力防衛戦力として10年にわたり織田信長軍と戦った。雑賀衆は当時世界最先端の鉄砲集団であり、その精確な射撃と集団運用の戦術は信長軍に甚大な損害を与えた。特に天王寺砦の戦いでは信長自身が足を負傷するほどの奮戦を見せ、本願寺が10年も持ちこたえた最大の要因となった。「雑賀の鉄砲なくして石山合戦なし」と評される。
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