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PERSON
真田昌幸
真田昌幸
真田家の知将・上田城主
1547-1611 · 享年 64歳
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生涯
武田信玄・勝頼に仕えた真田幸隆の三男として信濃国に生まれた。武田氏滅亡後は自立して真田氏の存続を図り、織田・北条・上杉・徳川といった大勢力の間を巧みに渡り歩く外交術を駆使した。上田城を築き(1583年)、1585年と1600年の二度にわたって徳川家康の大軍を上田城で撃退したことで「表裏比興の者」と恐れられた。関ヶ原の戦い(1600年)では西軍(石田三成方)に与したが、長男・信之(東軍)と次男・幸村(西軍)に一族を二分する判断を下して家名の保存を図った。西軍敗北後は幸村とともに高野山に追放され、後に九度山に移された。幽閉生活を送りながらも幸村の大坂の陣への参戦を側面から支援したとされる。1611年、64歳で九度山にて没した。その知略は「日本一の策士」と称され、数倍の兵力の徳川軍を二度退けた上田合戦は戦国最大の籠城戦の一つとして語り継がれている。
人物像
機を見るに敏で、状況に応じて主君を変えることも厭わない柔軟かつ冷徹な現実主義者。家名存続と一族の利益を最優先に置き、そのためには大国相手でも臆さず立ち向かう胆力を持っていた。「表裏比興」という評価は裏切りの意味合いもあるが、弱小勢力が生き残るための必死の知略と見ることもできる。息子たちへの深い愛情を持ちながらも、大局のためには一族を分断する非情な判断を下した。
歴史的意義
徳川の大軍を二度退けた上田合戦の記念碑的存在として、長野県上田市の上田城は現在も観光地として栄えている。真田一族の物語は江戸時代の講談・浄瑠璃から現代のNHK大河ドラマ「真田丸」(2016年)まで、日本人に最も愛される歴史物語の一つとなっている。知略と胆力を兼ね備えた戦国武将の理想型として現代に語り継がれる。
逸話・エピソード
二度の上田合戦——徳川の大軍を二度退けた「表裏比興の者」
真田昌幸は1585年(第一次)と1600年(第二次)の二度にわたって、上田城で徳川家康の大軍を撃退した。第二次上田合戦では、関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠の主力軍(約3万8千)を約2千の兵で10日間足止めし、秀忠を関ヶ原に間に合わせなかった。家康はこの功績を評価しながらも昌幸を「表裏比興の者」(信用できない狡猾な男)と評した。関ヶ原後は九度山に配流されたが、「昌幸生きている限り徳川も油断できない」と語られたほど、晩年まで知略を失わなかったとされる。
ゆかりの地 — 5
松代城
関ヶ原の戦い後、徳川家康は真田昌幸の長男・真田信之(信幸)を松代藩10万石の藩主に任じた。昌幸の死後、信之は松代に入り以後真田氏10代が松代藩を治めた。松代の真田宝物館には信之・昌幸ゆかりの甲冑・書状が多数収蔵され、真田一族の歴史を伝える。
真田本廟(長国寺)
長野県
長国寺は真田昌幸・信繁(幸村)父子の菩提寺。関ヶ原後に九度山へ配流された昌幸はそこで没し(1611年)、のちに遺骸は長国寺に改葬された。境内には昌幸の霊廟が置かれ、真田家の精神的拠りどころとして現在も多くの真田ファンが参拝に訪れる。
上田城跡
長野県
天正11年(1583年)、真田昌幸が上田の地に築城。天正13年(1585年)の第一次上田合戦では鳥居元忠ら7千の徳川軍を撃退し、1,300余の首を取る大勝を収めた。慶長5年(1600年)の第二次上田合戦では秀忠軍3万8千を10日以上足止めし、関ヶ原への遅参を招いた名将の居城。
上田城
長野県
上田城の築城者。沼田城返還を拒否して家康と対立し、わずか1,200の兵で7,000の徳川軍を撃破した第一次上田合戦の主役。城内に巧妙な罠を仕掛け、天守から旗を振って伏兵を発動させる戦術は戦国屈指の名采配。
戸石城(砥石城)
長野県
真田昌幸は上田城を本城としつつ、戸石城を重要な支城として機能させた。天正13年(1585年)の第一次上田合戦では、長男・信之がこの城から出陣して徳川軍の側面を突き、上田城と戸石城の連携が勝利の決め手となった。
─ 完 ─
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