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JR上田駅から徒歩約12分
長野県上田市二の丸6263
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真田昌幸が天正11年(1583年)に築いた戦国屈指の名城。天正13年(1585年)の第一次上田合戦では1,200の兵で7,000の徳川軍を撃退し、慶長5年(1600年)の第二次上田合戦では秀忠率いる3万8千を10日以上足止めして関ヶ原への遅参を招いた。現存する三基の隅櫓・東虎口櫓門は国の重要文化財で、境内には真田神社も鎮座する。城跡は上田城跡公園として整備され桜の名所でもある。大河ドラマ「真田丸」の舞台として、全国から観光客が押し寄せる。
上田城は天正11年(1583年)、真田昌幸が上田の地に築城した。1585年の第一次上田合戦で徳川軍を撃退し、真田の名を轟かせた。1600年の第二次上田合戦では徳川秀忠軍を足止めし、関ヶ原への遅参を招いた。関ヶ原後、真田昌幸・信繁は九度山に配流。仙石氏を経て松平氏が城主となった。現存する西櫓は真田時代の遺構とされ、長野県宝に指定されている。
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1585年(天正13年)、信濃国上田(現在の長野県上田市)において、真田昌幸率いる真田軍が徳川家康の命を受けた鳥居元忠・大久保忠世ら徳川軍を撃退した戦い。兵力で圧倒的に劣る真田軍が上田城を巧みに活用し、攻城戦で徳川軍に多大な損害を与えて撃退した。真田昌幸の智謀と上田城の堅固さを世に知らしめた戦いとして名高く、「日本一の兵(つわもの)」と称された真田氏の武名を高めた。家康はこの敗北を深く恥じたとされ、15年後の第2次上田合戦へとつながる因縁の始まりとなった。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いと同時期、真田昌幸・幸村(信繁)父子が徳川秀忠率いる徳川軍(約38,000)を上田城で足止めした戦い。昌幸は西軍(石田三成方)についていたため、東軍として関ヶ原に向かう秀忠軍は上田城攻略を試みた。しかし昌幸の巧みな守城戦に翻弄された秀忠軍は時間を浪費し、関ヶ原の本戦に遅参するという大失態を犯した。秀忠の遅参は家康の怒りを買ったが、幸い東軍が勝利したため大事には至らなかった。真田親子の武名を高めた伝説的な籠城戦として今も語り継がれている。
天正13年(1585年)、家康は鳥居元忠ら7千の兵を派遣して上田城を攻撃させたが、昌幸の巧みな罠と伏兵に翻弄され1,300人の死者を出す大敗。慶長5年(1600年)にも秀忠が3万8千で攻めたが攻略できず関ヶ原への到着が遅れた。家康にとって二度の苦い敗北の記憶が刻まれた城。
上田城の築城者。沼田城返還を拒否して家康と対立し、わずか1,200の兵で7,000の徳川軍を撃破した第一次上田合戦の主役。城内に巧妙な罠を仕掛け、天守から旗を振って伏兵を発動させる戦術は戦国屈指の名采配。
昌幸の次男・信繁(幸村)。第二次上田合戦で父と共に秀忠軍3万8千を足止め。後に大坂の陣で真田丸を築き「日本一の兵」と称された。
昌幸の長男。第一次上田合戦では戸石城から徳川軍の側面を強襲し壊走させた。関ヶ原では徳川方につき真田家の存続を図った。
本多忠勝の娘で信之の正室。関ヶ原前に舅・昌幸の入城を武装して拒否した逸話で知られる。
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