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PERSON
真田幸村
真田幸村
日本一の兵
1567-1615 · 享年 48歳
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生涯
1567年、信濃の戦国大名・真田昌幸の次男として生まれた。本名は信繁で、「幸村」は後世の呼び名。幼少期から文武に優れ、豊臣秀吉のもとで人質生活を送る中で中央の政治・軍事を学んだ。大谷吉継の娘を妻に迎えた。1600年の関ヶ原の戦いでは父・昌幸と共に西軍に属し、中山道を進む徳川秀忠の大軍2万余を上田城でわずかな兵で足止めし、秀忠を関ヶ原に間に合わせなかった。戦後、父とともに紀州九度山に蟄居を命じられ14年を過ごした。1614年の大坂冬の陣では豊臣方に加勢。大坂城南側に「真田丸」と呼ばれる半月形の出城を築き、押し寄せる徳川軍に甚大な損害を与えた。1615年の大坂夏の陣では天王寺・岡山口で奮戦し、家康の本陣に向けて三度にわたって突撃。家康が自害を覚悟したほど追い詰めたと伝わる。奮戦の末に討ち死にし、敵方の薩摩藩士・西尾宗次に「日本一の兵、古よりの物語にもこれなき勇士」と称えられた。享年49歳。真田丸跡地は大阪市天王寺区に史跡として整備されており、戦国最後の英雄を偲ぶ多くの人々が今も訪れる。
人物像
義理堅く勇猛果敢。父譲りの知略に加え、死を恐れぬ突撃精神を持つ。九度山での蟄居生活にも耐え、最後の戦いに全てを賭けた不屈の闘志の持ち主。
歴史的意義
大坂の陣での奮戦は後世に語り継がれ、真田十勇士など多くの物語の主人公となった。戦国最後の英雄として日本人に最も人気のある武将の一人。六文銭の旗印は真田家の象徴として有名。
逸話・エピソード
真田丸——大坂城の南に築いた難攻不落の出城
大坂冬の陣(1614年)で幸村は大坂城南側の低湿地帯に半月形の出城「真田丸」を築いた。徳川軍が総攻撃をかけてくると、幸村は敢えて将兵を内部に引き込み、頃合いを見て鉄砲・弓矢で猛射した。前田利常隊・井伊直孝隊など徳川方は甚大な損害を受け、一切突破できなかった。この戦いは日本戦史に残る傑作守城戦として称えられている。
家康本陣への三度の突撃
大坂夏の陣(1615年)天王寺口の決戦では、幸村は決死の覚悟で家康の本陣に向けて三度にわたる突撃を敢行した。最初の二度は失敗したが、三度目の突撃では馬印が倒れ、家康が自害を覚悟したほど迫った。その場に居合わせた薩摩藩士・西尾宗次は後に「日本一の兵(つわもの)、古よりの物語にも稀なる勇士」と記している。
関連する歴史的事件
1614
大坂冬の陣
1614年(慶長19年)、徳川家康が豊臣秀頼の籠る大坂城(現在の大阪府大阪市)を約20万の大軍で包囲した戦い。「方広寺鐘銘事件」を口実に始まったこの攻城戦では、真田幸村(信繁)が築いた「真田丸」が家康軍を苦しめた。最終的には外堀を埋める条件で和議が成立したが、家康は二の丸・三の丸の堀まで埋めさせ、翌年の夏の陣で豊臣氏を滅ぼす布石とした。幸村の奮戦は今も語り継がれ、大坂城は豊臣滅亡の地として多くの人が訪れる。
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ゆかりの地 — 7
大坂城
大阪府
大坂冬の陣(1614年)で、幸村(信繁)は城の南側に出丸「真田丸」を独自に築き、徳川の大軍を迎え撃った。真田丸からの砲撃と奇襲は徳川軍に甚大な被害を与え、幸村の名を天下に轟かせた。
真田本廟(長国寺)
長野県
真田信繁(幸村)の霊位もこの長国寺に祀られ、大坂夏の陣(1615年)で壮絶な最期を遂げた英雄の菩提が弔われている。大河ドラマ「真田丸」の放映以降、幸村の人気は全国的に高まり、長国寺は上田城・生島足島神社と並ぶ真田巡礼の必訪地となった。
一心寺
大阪府
大坂夏の陣(1615年)において、一心寺の北側一帯は天王寺の戦場となった。真田幸村がこの付近で最後の突撃を行い討死したと伝わる。境内は激戦地の中心にあり、幸村の壮絶な最期を今に伝える歴史の地である。
上田城跡
長野県
昌幸の次男・真田信繁(幸村)は、第二次上田合戦で父・昌幸とともにこの城に立て籠もり秀忠軍を翻弄した。城内の真田神社には幸村を祀る社が設けられ、「日本一の兵」として後世に語り継がれる英雄の出発点がこの上田城である。
上田城
長野県
昌幸の次男・信繁(幸村)。第二次上田合戦で父と共に秀忠軍3万8千を足止め。後に大坂の陣で真田丸を築き「日本一の兵」と称された。
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─ 完 ─
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