1913年2月、虚子は鎌倉の長谷から由比ヶ浜に抜ける丘に立ち「春風や闘志抱きて丘に立つ」の一句を詠んだ。河東碧梧桐が主導する新傾向俳句(自由律・無季俳句)が俳壇を席巻するなかで、有季定型の伝統俳句を守るべく自ら「守旧派」を称して俳壇に復帰する決意を示した句である。以後、虚子は『ホトトギス』を拠点に客観写生・花鳥諷詠を唱え、昭和期の俳壇の主流を築いていく。この一句は虚子の生涯を象徴する代表句として今も広く愛誦される。
1904年冬、神経衰弱に苦しむ夏目漱石の気晴らしに写生文を勧めたのが虚子であった。漱石が書いた最初の一編が『吾輩は猫である』で、当初は短編の予定だったが虚子が『ホトトギス』に連載として発表、反響を呼んで漱石を小説家として世に送り出した。続いて『坊っちゃん』『草枕』も『ホトトギス』に掲載され、漱石は朝日新聞専属作家へと転身していく。虚子の編集眼が日本近代文学史を動かした代表例である。
1910年、37歳の虚子は鎌倉市由比ヶ浜に転居、以後50年間を鎌倉で過ごした。鎌倉の静謐な自然と海辺の風物は虚子の「花鳥諷詠」の理念を育み、多くの名句がこの地で生まれた。1959年4月8日に鎌倉自宅で85歳で没し、北条政子・源実朝が眠る扇ガ谷の寿福寺に葬られた。忌日4月8日は椿の花に因んで「椿寿忌」とも呼ばれ、毎年寿福寺墓前で追悼句会が開かれる。鎌倉市由比ヶ浜の旧居跡には虚子立子記念館があり、ゆかりの短冊・書簡・写真などが保存されている。