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PERSON
高浜虚子
高浜虚子
近代俳壇の大宗匠
1874-1959 · 享年 85歳
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生涯
1874年、愛媛県温泉郡長町新町(現・松山市湊町)に旧松山藩士・池内政忠の五男として誕生。本名・池内清。9歳のとき祖母の実家・高浜家を継ぎ高浜清と名乗った。松山中学時代に同郷の先輩・正岡子規に師事して俳句を学び、1891年(18歳)子規より「虚子」の号を授かる。仙台の第二高等学校に進学するも1894年中退して上京、子規のもとに身を寄せた。1898年、病床の子規から俳誌『ホトトギス』を託されて主宰を継承、拠点を東京に移し編集経営を担った。当初は俳句よりも写生文・小説に傾倒し、夏目漱石の『吾輩は猫である』『坊っちゃん』を『ホトトギス』に掲載するなど文壇の一角を築く。1910年(37歳)鎌倉市由比ヶ浜に移住、以後50年間を鎌倉で過ごした。1912年の子規没後、河東碧梧桐が主導した自由律の「新傾向俳句」に危機感を抱き、1913年に俳壇に復帰して「守旧派」を宣言、有季定型・客観写生を擁護した。1928年に「花鳥諷詠」を提唱、『ホトトギス』を通じて水原秋桜子・山口誓子・中村草田男ら多くの俳人を育てた。第二次大戦中の1944年信州小諸に疎開し『小諸百句』を詠む。戦後1947年鎌倉に帰住、1954年文化勲章受章。1959年4月8日、鎌倉の自宅で脳溢血により85歳で永眠。生涯に20万句以上を残した。
人物像
師・子規を敬愛しつつ、その没後は「守旧派」を自任して伝統俳句を守り抜いた不動の信念の人。盟友・河東碧梧桐との40年に及ぶ俳論論争では激しく対立しながらも、碧梧桐の死の際には「私と碧梧桐ほど親しい仲はちょっとなかったろう」と述懐する情の深さを持つ。主宰誌『ホトトギス』で数百の俳人を育てた指導者でもあった。写生文・小説の才もあり、漱石を文壇に引き上げた慧眼の持ち主。
歴史的意義
近代俳句の二大潮流のうち伝統派の総帥として有季定型を守り、その門下から水原秋桜子・山口誓子・中村草田男・阿波野青畝ら「四S」ほか数百人の俳人を輩出。『ホトトギス』は三代・高浜年尾、四代・稲畑汀子(孫)へと引き継がれ、戦後俳壇の主流を形成した。次女・星野立子も「玉藻」主宰として活躍。1954年文化勲章受章。代表句「遠山に日の当たりたる枯野かな」「春風や闘志抱きて丘に立つ」「白牡丹といふといへども紅ほのか」などは教科書にも採られ今も広く愛誦される。忌日4月8日は「虚子忌」「椿寿忌」と呼ばれ、鎌倉寿福寺の墓前で毎年追悼句会が開かれる。鎌倉市由比ヶ浜の旧居跡地には虚子立子記念館(稲畑汀子記念館)があり、ゆかりの資料が保存されている。
逸話・エピソード
「春風や闘志抱きて丘に立つ」——俳壇復帰の決意
1913年2月、虚子は鎌倉の長谷から由比ヶ浜に抜ける丘に立ち「春風や闘志抱きて丘に立つ」の一句を詠んだ。河東碧梧桐が主導する新傾向俳句(自由律・無季俳句)が俳壇を席巻するなかで、有季定型の伝統俳句を守るべく自ら「守旧派」を称して俳壇に復帰する決意を示した句である。以後、虚子は『ホトトギス』を拠点に客観写生・花鳥諷詠を唱え、昭和期の俳壇の主流を築いていく。この一句は虚子の生涯を象徴する代表句として今も広く愛誦される。
漱石を文壇へ——『吾輩は猫である』の誕生
1904年冬、神経衰弱に苦しむ夏目漱石の気晴らしに写生文を勧めたのが虚子であった。漱石が書いた最初の一編が『吾輩は猫である』で、当初は短編の予定だったが虚子が『ホトトギス』に連載として発表、反響を呼んで漱石を小説家として世に送り出した。続いて『坊っちゃん』『草枕』も『ホトトギス』に掲載され、漱石は朝日新聞専属作家へと転身していく。虚子の編集眼が日本近代文学史を動かした代表例である。
鎌倉五十年と寿福寺の墓
1910年、37歳の虚子は鎌倉市由比ヶ浜に転居、以後50年間を鎌倉で過ごした。鎌倉の静謐な自然と海辺の風物は虚子の「花鳥諷詠」の理念を育み、多くの名句がこの地で生まれた。1959年4月8日に鎌倉自宅で85歳で没し、北条政子・源実朝が眠る扇ガ谷の寿福寺に葬られた。忌日4月8日は椿の花に因んで「椿寿忌」とも呼ばれ、毎年寿福寺墓前で追悼句会が開かれる。鎌倉市由比ヶ浜の旧居跡には虚子立子記念館があり、ゆかりの短冊・書簡・写真などが保存されている。
ゆかりの地 — 3
寿福寺
神奈川県
鎌倉に50年を過ごした俳人・高浜虚子(1874-1959)は寿福寺に葬られた。忌日の4月8日は「虚子忌」「椿寿忌」と呼ばれ、毎年墓前で追悼句会が開かれる。北条政子・源実朝の墓と同じ扇ガ谷の奥に虚子の墓があり、『ホトトギス』主宰として近代俳壇を率いた大宗匠の眠る地として、いまも多くの俳人が参詣に訪れる。
英勝寺
神奈川県
鎌倉に長く住み俳壇を率いた高浜虚子は、英勝寺にもしばしば足を運び、明治期に失われた山門の再建を願う尼の悲願に深く共鳴した。「木々の芽や寺復興の尼悲願」「寺維持の尼の悲願や牡丹の芽」の二句を残している。
高浜虚子の墓(寿福寺)
神奈川県
明治41年(1908年)に鎌倉に住み始めた虚子は、扇ヶ谷一帯の寺社を生涯歩き続け、寿福寺の山門前の参道や山中の静謐に深く心を寄せた。「鎌倉や百八鐘も虫の声」「寿福寺の門前の道残り雪」など鎌倉での代表的な句を多く詠み、最終的に自らの墓所を寿福寺墓地に定めた。北条政子・源実朝のやぐらと近接する位置に近代俳句の総帥が眠るという、鎌倉ならではの中世と近代の同居をなしている。
─ 完 ─
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