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PERSON
徳川慶喜
徳川慶喜
最後の将軍
1837-1913 · 享年 76歳
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生涯
天保8年(1837年)、水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれる。幼名は七郎麻呂。水戸藩は「尊王」の家風で知られ、慶喜は幼少期から帝への忠誠と日本の将来について深く考える環境で育った。
嘉永6年(1853年)、ペリーの黒船来航で日本は激動の時代を迎える。一橋家を相続していた慶喜は、将軍継嗣問題で「一橋派」の推す候補となるが、大老・井伊直弼の安政の大獄により謹慎処分を受ける。
慶応2年(1866年)、第15代征夷大将軍に就任。フランスの支援を受けて幕政改革に取り組み、陸軍の近代化や行政機構の改革を進めた。しかし薩長同盟の圧力は強まる一方だった。
慶応3年(1867年)10月14日、二条城で大政奉還を行い、260年続いた徳川幕府の政権を朝廷に返上した。新体制での主導権確保を狙った政治的計算もあったが、結果的に内戦の拡大を防ぐ英断となった。
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、慶喜は大坂城から軍艦で江戸に逃れ、上野寛永寺で謹慎。勝海舟に全権を委ね、江戸城の無血明け渡しを実現させた。その後水戸、次いで静岡に移り、明治以降は趣味人として写真撮影・狩猟・自転車などを楽しむ余生を過ごした。
大正2年(1913年)11月22日、77歳で没。最後の将軍でありながら、新時代に適応して長寿を全うした数少ない人物であった。
人物像
「最後の将軍」としての評価は複雑である。英明と評される一方、鳥羽・伏見からの逃亡は「臆病」とも批判された。しかし結果的に、慶喜の恭順姿勢が大規模な内戦を防ぎ、日本の近代化を可能にしたとも言える。晩年の写真撮影や自転車などの趣味は、好奇心旺盛で時代に順応する柔軟さを示している。
歴史的意義
大政奉還により無血の政権交代を実現し、日本の近代化への道を開いた。260年の太平を築いた徳川幕府の最後の当主として、その決断は日本史上最も重要な政治判断の一つに数えられる。
逸話・エピソード
大政奉還
1867年、征夷大将軍の職を朝廷に返上。260年続いた徳川幕府を自らの手で終わらせた最後の将軍。
関連する歴史的事件
1853
ペリー来航
1853年(嘉永6年)6月3日、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官・マシュー・ペリーが4隻の蒸気船(黒船)を率いて相模国浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に来航し、日本に開国を求めた歴史的事件。幕府は回答を翌年に延期したが、1854年に日米和親条約を締結。下田・函館の開港を認めた。ペリー来航は200年以上続いた鎖国体制を終わらせ、以後の開国・攘夷論争、幕末の動乱、そして明治維新への大きなきっかけとなった。黒船は蒸気で動く砲艦という「技術の差」を日本人に突きつけ、日本近代化の原点となった。
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ゆかりの地 — 5
東叡山 寛永寺
東京都
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は寛永寺の大慈院に謹慎した。同年5月の上野戦争で彰義隊が新政府軍に敗れると、寛永寺の壮大な伽藍は焼失。徳川家の菩提寺として栄華を誇った寛永寺は、幕府とともに終焉を迎えた。
靖国神社
東京都
靖国神社には戊辰戦争以降の戦没者が祀られているが、旧幕府側の戦死者は合祀されていない。大政奉還を行い恭順した慶喜自身は祀られていないものの、慶喜の決断が招いた戊辰戦争で散った命がここに眠る。最後の将軍と維新の犠牲者の複雑な関係を象徴する場所である。
養福寺
東京都
慶応4年(1868年)の上野戦争において、徳川慶喜を支持した彰義隊の生き残りがこの寺に逃げ込んだ。山門に残る弾痕は新政府軍の追撃の痕跡である。
江戸城
東京都
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は江戸城に戻り謹慎した。勝海舟の交渉により江戸城は新政府軍に無血で明け渡され、260年の徳川の居城は終焉を迎えた。慶喜は水戸、次いで静岡に移り隠棲の日々を送った。
徳川慶喜墓(谷中霊園)
東京都
江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の墓所。大政奉還と江戸無血開城で260年続いた徳川の世を平和裏に閉じた最後の将軍。増上寺・寛永寺ではなく谷中霊園に神式の円墳で葬られているのは、明治天皇への敬意から自ら望んだ形という。
─ 完 ─
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