[ まだ写真がありません ]
最初の一枚を投稿しませんか
東京メトロ九段下駅から徒歩5分
東京都千代田区九段北3-1-1
Google Map で開く ↗
災厄消除・方位除け・疫病退散。不動明王・観音・祇園の神を祀る寺社で特に祈願される。
御祭神「護国の英霊」のご神徳に由来
お祭り・行事
— 8
靖国神社で行われる夏越の大祓。6月30日に茅の輪くぐりが行われ、半年分の穢れを祓う神事。みたままつりに続く靖国神社の夏の行事で、多くの参拝者が茅の輪をくぐって無病息災を祈る。
明治2年(1869年)、明治天皇の御沙汰により「東京招魂社」として九段の地に創建。「靖国」の名は「国を靖(やす)んずる」、すなわち「国を平和にする」の意味で、明治天皇が命名したと伝えられ、1879年に改称された。幕末の勤王の志士から戊辰戦争・西南戦争・日清戦争・日露戦争・太平洋戦争まで、国事殉難者約246万6千柱の御霊を祀る。軍人・軍属のみならず従軍看護婦、学徒動員、ひめゆり学徒隊なども含まれる。本殿は神明造を採用した格調ある建築で、明治34年(1901年)建造の拝殿は入母屋造の堂々たる構えを見せる。鋼管製の第一鳥居(高さ約25m・昭和49年再建)から続く参道は春になると約500本の桜が咲き誇り、なかでも気象庁が東京の桜の開花宣言の基準とする「標本木」(ソメイヨシノ)が境内に植えられていることで知られる。明治15年(1882年)開館の遊就館は日本最初期の軍事博物館であり、零式艦上戦闘機・人…
1869年、明治天皇の命で「東京招魂社」として創建。1879年に「靖國神社」に改称。幕末から太平洋戦争までの戦没者約246万6千柱を祀る。1978年にA級戦犯14名が合祀され、今日に至るまで外交・憲法論争の焦点となっている。
関連記事
— 5
関連する歴史的事件
— 3
明治2年(1869年)6月、明治天皇の思し召しにより、幕末の戊辰戦争で亡くなった官軍側の戦没者を慰霊するため、東京・九段坂上に「東京招魂社」が創建された。創建にあたり、大村益次郎が鎮座地の選定・施設の設計に深く関わった。明治12年(1879年)に「靖國神社」と改称。「靖国」の名は「国を靖(やす)んずる=国を平和にする」の意。西南戦争・日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・太平洋戦争と、以後の国内外の戦争で亡くなった戦没者が次々と合祀され、最終的に約246万6千柱に及ぶ。吉田松陰・高杉晋作ら幕末の勤王の志士も祀られており、近代日本の国家的追悼施設として中心的役割を担ってきた。
昭和50年(1975年)11月21日、昭和天皇は靖国神社を参拝された。これが昭和天皇にとって最後の靖国参拝となった。昭和天皇は戦後も靖国神社を8回参拝しており、この年の参拝は平和を祈念するものだった。しかし1978年10月にA級戦犯14名が秘密裏に合祀されたことを昭和天皇は深く憂慮し、以後は参拝を一切取りやめた。入江相政侍従長の日記によれば、昭和天皇は「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語ったとされる。この判断は現在の天皇陛下にも引き継がれており、昭和天皇の1975年の参拝が現在まで続く「天皇の靖国不参拝」の起点となった。昭和天皇最後の参拝から半世紀近くが経つ今も、天皇の靖国参拝は実現していない。
昭和53年(1978年)10月17日、靖国神社の秋季例大祭に際し、太平洋戦争のA級戦犯14名が他の戦没者とともに密かに合祀された。A級戦犯とは、極東国際軍事裁判(東京裁判)で「平和に対する罪」で有罪とされた戦争指導者であり、東条英機元首相ら7名が絞首刑に処されている。合祀は当時の松平永芳宮司の判断で行われ、当初は非公開だったが1979年に報道で明らかになった。昭和天皇はこの合祀を深く憂慮し、1978年以降は参拝を取りやめ、崩御まで一度も靖国を参拝しなかったと側近の日記により後に判明した。この合祀を契機に、日本の首相・閣僚の参拝が外交問題・憲法問題として中国・韓国などから強く批判されるようになり、靖国問題は現在も未解決のまま続いている。
乃木希典(1849〜1912年)は日露戦争の英雄として靖国神社に深く結びついた人物である。旅順要塞攻略戦(1904〜1905年)では二人の息子も戦場で失いながら指揮を執り続け、旅順を陥落させた。1912年9月13日、明治天皇の大葬の礼の当日、妻・静子とともに殉死(自刃)し、日本中に衝撃を与えた。乃木の殉死は武士道精神の象徴として称えられる一方、時代錯誤との批判も受けた。靖国神社には乃木と妻の霊が合祀されており、境内に隣接する靖国神社遊就館でも乃木の遺品が展示されている。東京・赤坂には乃木神社が建立された。
西郷隆盛(1828〜1877年)は靖国神社に祀られていない。これは靖国神社が政府・官軍側の戦没者を祀る施設であるのに対し、西郷が1877年の西南戦争で政府軍に反旗を翻した「賊軍」の首領として戦死したためである。維新三傑の一人にして「敬天愛人」を信条とした西郷の不在は、靖国神社の性格を端的に示す。ただし西郷の部下の多くは明治初期の戦争で官軍側として戦い、靖国に祀られている。『翔ぶが如く』などで描かれる西郷の悲劇的最期と靖国不在の問題は、近代日本の英雄観・歴史観の複雑さを象徴している。
高杉晋作(1839〜1867年)は吉田松陰の愛弟子にして奇兵隊の創設者であり、靖国神社に祀られている幕末の英雄のひとりである。正規の武士に限らず農民・商人・僧侶も参加できる近代的混成部隊「奇兵隊」を1863年に創設し、長州藩が倒幕を果たす原動力を作った。しかし明治維新の完成を見ることなく1867年に肺結核で死去、享年27歳。「おもしろき こともなき世を おもしろく」という辞世の句が知られる。松陰門下の精鋭が国家のために命を捧げた体現として、靖国の精神的文脈に深く刻まれている。
吉田松陰(1830〜1859年)は靖国神社に祀られている幕末志士の精神的象徴である。松下村塾で伊藤博文・山縣有朋・高杉晋作ら維新の英傑を育てた松陰は、安政の大獄で1859年に処刑された。享年29歳。松陰は「死して不朽の見込みあれば、いつでも死すべし」と語り、その殉国の精神は靖国神社の創建理念そのものと重なる。靖国神社が祀る幕末志士の中でも松陰の存在感は際立っており、境内の遊就館でもその思想と生涯が紹介されている。
靖国神社の参道入り口に立つ大村益次郎の銅像(1893年建立)は、靖国神社境内に建てられた最初の銅像である。長州出身の軍医・兵学者であり、明治新政府の陸軍建設に尽力した「日本陸軍の父」。戊辰戦争では官軍の総司令官として幕府軍を制圧したが、1869年に反感を持った武士に刺され、同年死去。招魂社創建の翌年に没した益次郎の功績をたたえ、高村光雲・岡崎雪声が制作した銅像は近代日本彫刻史の先駆けともいわれる。
靖国神社には戊辰戦争以降の戦没者が祀られているが、旧幕府側の戦死者は合祀されていない。大政奉還を行い恭順した慶喜自身は祀られていないものの、慶喜の決断が招いた戊辰戦争で散った命がここに眠る。最後の将軍と維新の犠牲者の複雑な関係を象徴する場所である。
📱
アプリでもっと便利に
GPS自動スタンプ・オフライン閲覧・推し活機能