『源平盛衰記』などに記される伝説で、史実としての裏付けは確実ではありません。中世以降の伝奇文学・浄瑠璃・歌舞伎に題材として広く取り上げられ、文覚出家の物語的核となりました。
那智の滝は古代から修験道の聖地で、滝行(滝に打たれる修行)は文覚以外にも多くの修験者が実践しました。文覚個人の伝記の細部(21日間・幻視等)は脚色が含まれる可能性がありますが、滝行自体は当時の修行として一般的でした。
『平家物語』が伝える文覚と頼朝の対面の場面は、軍記物語としての劇的演出が強く、実際に義朝の髑髏が持ち込まれたかは不明。ただし文覚が頼朝の挙兵を促した点は、複数の史料が示唆します。
文覚は神護寺再建のため後白河院・頼朝・後鳥羽院から多大な寄進を受け、伽藍を全面的に整備しました。現在の神護寺の伽藍配置は、文覚再建時の基盤に基づいています。文覚は神護寺の中興の祖と呼ばれます。
神護寺(京都市右京区高雄)の境内に文覚の墓と伝わる五輪塔があります。再建に尽力した寺に眠る形で、彼の波乱の生涯がここで静かに収まっています。途上死説では対馬で果てたとも伝わり、墓所には諸説残ります。