荼枳尼天が武家社会で広く信仰されたことは、歴史的事実として記録が残っています。今川義元、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家など、多くの戦国大名・武将が荼枳尼天を深く信仰したとされています。
なぜ武将たちは荼枳尼天に帰依したのでしょうか。その理由は、荼枳尼天が本来持っていた「死の六ヶ月前にその死を予知する」という能力への恐怖と期待の両面にあります。死と隣り合わせの戦乱の時代に生きた武将たちにとって、死を予知し、あるいは死から守護してくれる神仏への信仰は切実な意味を持ちました。荼枳尼天への祈りには「この戦いで死なないように」「敵に勝利できるように」という現世利益の願いが込められていたのです。
豊臣秀吉が特に篤く荼枳尼天を信仰したことは、「人たらし」と評された秀吉の政治力と商才への信仰が重なることも興味深い点です。荼枳尼天の御利益は豊穣・商売繁昌にとどまらず、知略・弁舌・人心掌握にまで及ぶと信じられており、秀吉の成功の秘密がここにあると信じた人々が少なくなかったのです。
成田山新勝寺は不動明王を御本尊とする真言宗智山派の大本山ですが、同寺の信仰圏にもかつて荼枳尼天への信仰が重なっていた地域がありました。関東の武家から商人まで幅広い信仰を集めた成田山の歴史は、江戸時代における現世利益信仰の広がりを示す格好の事例です。
明治の神仏分離令以後、荼枳尼天を直接祀る神社は激減しましたが、その信仰の実質は形を変えて継続しています。神社系の稲荷信仰では御祭神の名称が変わりましたが、参拝者が感じる「稲荷神社に祈ることで商売が繁盛する」という信仰の核心は変わっていません。そして豊川稲荷のような仏教寺院系の施設では、荼枳尼天が今も明確に御本尊として祀られ続けています。
現代の都市に散在する稲荷神社の多くは、商店街や企業の敷地内に小さな祠として存在しています。銀座の花椿稲荷、兜町の兜神社に隣接する稲荷社——東京の金融・商業の中心地に稲荷社が多く点在するのは偶然ではありません。江戸時代から続く商家・問屋の信仰が、場所の記憶として残存しているのです。
先達の精神が息づいています——稲荷の鳥居の朱色が夕陽に染まる時刻、参拝者の祈りはインド密教の夜叉から日本の農業神へと至る、数百年の信仰の流れに静かに合流しています。荼枳尼天への信仰は、神道でも仏教でもない、日本独自の神仏習合という文化的知恵の最も複雑な結晶のひとつです。