太田道灌とはどのような人物か——文武両道の武将の生涯
永享4年(1432年)、相模国(現・神奈川県)に生まれた道灌は、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)家の家宰(執事)として関東の政治・軍事を担った。幼名・鶴千代、元服後は資長(すけなが)と称し、「道灌」は剃髪後の法名である。
30余度の合戦と「用兵の名手」の評価はどこから来るか?
道灌は享徳3年(1454年)の「享徳の乱」勃発後の戦乱期を生き抜き、武蔵・相模・下総にわたる30余度の合戦で一度も大敗を喫さなかった。後北条氏をも舌を巻かせたとされるその用兵の巧みさは、台地と水堀を組み合わせた城の配置に象徴される。
道灌は室町時代屈指の文化人でもあった。**連歌師・宗祇(そうぎ)**と交流し、禅僧・万里集九(ばんりしゅうく)を幕僚として招いた。万里集九が残した日記『梅花無尽蔵』には道灌の日常が活写され、和歌・連歌の座を頻繁に開いた様子が記される。江戸時代の儒者・林羅山は「文武を兼ね備えた稀有の人物」と評している。
文明18年(1486年)、主君・扇谷上杉定正(さだまさ)の謀殺によって54歳で断たれた。入浴中に刺客を差し向けられたとも伝わり、絶命の際に「当方滅亡」と言い残したとされる——自分なき後、主家は滅びるという予言であった。事実、扇谷上杉家はその後50年余で後北条氏に滅ぼされる。