山口県防府市三田尻にある、萩藩(長州藩)の水軍「御船手組」の本拠地跡で、萩往還関連遺跡として国の史跡に指定されている。慶長16年(1611年)、戦国期の瀬戸内で活躍した毛利水軍・村上水軍の系譜を引く御船手組が、下松からこの三田尻へ移されて設けられた。萩城下から瀬戸内海への最短距離にあたる三田尻は、藩の海の玄関口として重視され、御舟倉には藩主の御座船や軍船が常置され、造船・修理の設備も整えられていた。平時には藩主の上方往来の送迎、物資輸送、幕府役人の警護や水先案内なども担った。幕末の文久3年(1863年)には「海軍局」と改称されて長州藩洋式海軍の拠点となり、楫取素彦の実兄・松島剛蔵が初代の管轄者を務めた。現在は通堀と船入水路の一部が遺構として残り、周辺には警固町・鋳物師町・局の内など当時を伝える地名が残る。
戦国時代に瀬戸内海で水軍として活躍した毛利水軍・村上水軍は、江戸時代に入ると萩藩の「御船手組」として再編された。慶長9年(1604年)に萩への築城が決まると、萩から瀬戸内海へ出る最短地点である三田尻の戦略的価値が高まり、慶長16年(1611年)頃、御船手組は下松から三田尻へ移された。御舟倉には藩主の御座船や軍船が格納され、船の建造・修理を行う施設も置かれた。船手組は軍務を本分としつつ、平時には参勤交代に伴う藩主の送迎、普請役の人員・物資の輸送、幕府役人の輸送・警護や水先案内、漂流船の長崎曳航などを担った。幕末の文久3年(1863年)、御舟倉は「海軍局」と改称され、楫取素彦の実兄・松島剛蔵が初代…