JR鎌倉駅東口から徒歩10分
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
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この地で詠まれた句
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夏来てもただひとつ葉の一葉かな
鎌倉を通った芭蕉が詠んだと伝わる句。夏が来ても「一葉」だけが存在するという禅的境地。
勝負運・スポーツ必勝・試験突破の勝運。八幡宮や諏訪大社など武門の守護神に由来。
御祭神「応神天皇(八幡大神)・比売神・神功皇后」のご神徳に由来
お祭り・行事
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鶴岡八幡宮境内のぼたん園で毎年春に開催される牡丹の観賞期間。約100種類・2000株の牡丹が咲き誇り、艶やかな大輪の花が境内を彩る。藁囲いの中に咲く牡丹の雅な姿が訪問者を魅了する。
治承4年(1180年)、源頼朝が由比若宮を現在地に遷座して以来、鎌倉幕府の総鎮守として840年以上の歴史を刻む武家の守護神。祭神は応神天皇・比売神・神功皇后の三柱で、全国八幡社の中でも最高の格式を誇る。海へ一直線に延びる若宮大路(段葛)は頼朝が政子の安産を祈って整備した参道であり、鎌倉都市計画の中枢をなす。朱塗りの本殿・舞殿・楼門が荘厳な景観を形づくり、本殿は国の重要文化財に指定されている。かつて境内に聳えた樹齢千年の大銀杏は源実朝暗殺の舞台として語り継がれ、2010年の倒壊後も根元から新芽が育つ。9月の例大祭では流鏑馬神事が行われ、鎌倉武士の精神を今に伝える。北条政子・源実朝・大江広元ら幕府の重鎮が参拝し、承久の乱では御家人たちがここに結集して朝廷に立ち向かった。境内には鶴岡八幡宮ミュージアムも整備され、鎌倉の歴史と文化を深く学べる神社である。
康平6年(1063年)源頼義が前九年の役の勝利を祝い由比郷に石清水八幡宮を勧請したのが起源。治承4年(1180年)源頼朝が現在地に遷座し鎌倉幕府の総鎮守とした。承久3年(1221年)承久の乱では御家人がこの前で結集。建保7年(1219年)実朝暗殺の舞台。令和2年(2020年)「いざ、鎌倉」の物語として日本遺産に認定。
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関連する歴史的事件
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6世紀の仏教伝来以降、日本古来の神道と外来の仏教が融合し、一つの信仰体系として発展した宗教現象。奈良時代には神社内に神宮寺(神のための寺)、寺院内に鎮守社(仏を守る神社)が併設された。平安期に「本地垂迹説」が成立——日本の神々は仏・菩薩が民衆救済のため神の姿で現れた(垂迹)ものとする思想で、天照大神=大日如来、八幡神=阿弥陀如来などの対応が定められた。鎌倉期の両部神道(真言密教系)・山王神道(天台系)、室町期の吉田神道を経て、江戸期には寺社が一体化した形で地域信仰を支えた。1868年の神仏分離令まで約1,200年にわたり日本人の宗教生活の基本形態であり、現在も日本各地の神社・寺院に痕跡が残る(例:鶴岡八幡宮の薬師堂、日光東照宮の輪王寺一体化)。
1180年から1185年にかけて行われた源氏と平氏の全国規模の内戦。以仁王の令旨に応じた源頼朝の挙兵(石橋山の戦い・1180年)から始まり、富士川・一ノ谷・屋島・壇ノ浦と各地で源平の戦いが繰り広げられた。源義経の活躍により平氏は次々と敗れ、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏は完全に滅亡した。「平家物語」に詳細に記録されたこの戦争は、日本文学・芸術に多大な影響を与え、「諸行無常」の哲学を体現する歴史的事件として語り継がれてきた。源平合戦の終結が鎌倉幕府の成立につながり、以後の武家社会の基礎となった。
1185年(文治元年)、源頼朝が守護・地頭の設置を朝廷に認めさせ、武家政権としての鎌倉幕府の実質的な基盤を確立した年。壇ノ浦で平氏が滅亡し、同年11月に頼朝は全国への守護・地頭設置権を獲得した。1192年には征夷大将軍に任じられたが、実質的な武家政権は1185年以降に確立したとする見方が現在の主流である。鎌倉幕府の成立は、日本の政治史において武士が公家に代わって権力を握る「武家の世」の始まりを意味し、以後約700年続く武家政権の原型となった。
建保7年(1219年)正月、三代将軍・実朝は右大臣拝賀の儀式のため鶴岡八幡宮に参拝した帰路、大銀杏の陰に潜んでいた甥の公暁に暗殺された。わずか28歳。和歌を愛した文人将軍の非業の死は、源氏将軍の血統を断絶させた。
二代将軍・頼家は若くして将軍職を継いだが、独裁的な振る舞いが御家人の反発を招き、母・政子と祖父・時政によって将軍職を剥奪された。鶴岡八幡宮は頼家にとっても幼少期から親しんだ場所であった。
治承4年(1180年)、頼朝は由比若宮を現在地に遷座し、鶴岡八幡宮として鎌倉の総鎮守とした。若宮大路を整備し、参道を鎌倉の中心軸に据えることで、武家政権の威信を示す都市計画の要とした。
常盤亭は北条氏が鎌倉西部に構えた別邸で、政子の時代から北条一族の重要な拠点であった。政子は鎌倉幕府の実質的な最高権力者として、この一帯で北条氏の政治基盤を築いた。
義時は二代執権として鶴岡八幡宮を幕府の守護神社として崇敬し続けた。承久の乱(1221年)に際しては、この八幡宮の前で御家人たちが結集し、朝廷軍を破る決意を固めた。
義経は鶴岡八幡宮の回廊で、兄・頼朝への弁明として舞を奉納した静御前と深い縁がある。静御前が義経を想い「しづやしづ」と詠んだ舞は、八幡宮の名場面として今に伝わる。
八代執権・時宗は元寇(蒙古襲来)の国難に際し、鶴岡八幡宮で異国降伏の祈祷を行った。二度の蒙古襲来を退けた後、円覚寺を建立して戦没者を弔った。
時政は頼朝と共に鶴岡八幡宮の造営を支援し、初代執権として幕府の政治的基盤を固めた。しかし後に権力欲から排斥され、鎌倉を追放された。
三代執権・泰時は御成敗式目(貞永式目)を制定し、鶴岡八幡宮を武家法の精神的支柱として位置づけた。公正な裁判の実現に努めた名執権。
五代執権・時頼は建長寺を創建するなど禅宗を奨励しつつ、鶴岡八幡宮への崇敬も怠らず、幕府の安定期を築いた。
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