1600年、リーフデ号で漂着したアダムスは、イエズス会の宣教師たちから「海賊」と告発され処刑の危機に瀕した。しかし家康はアダムスを直接大坂城に呼び出し、数度にわたって面談した。アダムスが世界地図を広げて航海ルートを説明し、ヨーロッパの国際情勢やプロテスタントとカトリックの対立を語ると、家康は深く感銘を受けた。特にオランダやイングランドが布教ではなく純粋に交易を求めていることを知り、家康はイエズス会への不信感を強めた。この出会いが、後の日本の外交政策を大きく変えることになる。
家康の命により、アダムスは伊東(現・静岡県伊東市)の松川河口で西洋式帆船の建造に着手した。日本の船大工たちと協力し、まず80トン級の船を完成させ、続いて120トン級の大型船を建造した。いずれも試験航海に成功し、家康を大いに満足させた。120トン級の船は後にスペインの前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロをヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)に送還する際に使用され、太平洋横断を果たした。造船の地・伊東市には「按針メモリアルパーク」が整備されている。
アダムスはイングランドに妻子を残したまま、日本で新たな家庭を築いた。三浦半島の逸見に250石の領地を持ち、日本人妻との間に息子ジョセフと娘スザンナをもうけた。武士として刀を帯び、日本語を流暢に話し、家康の外交交渉の場に同席した。一方で母国への帰国を何度も願い出たが、家康は彼の知識を手放すことを拒み、終生帰国は叶わなかった。「帰りたいが帰れない」——東西の文化の間で引き裂かれながらも、日本の地に骨を埋めた青い目の侍の物語は、時代を超えて人々の心を打つ。