1535年、薩摩島津氏の当主・貴久の二男として生まれた。兄・義久が第17代当主となり、義弘は弟として島津軍の最前線を担い続けた。1572年の木崎原の戦いでは伊東義祐の大軍を圧倒的な少数で撃破し、「捨て奸」戦術で知られる島津式の戦法を駆使した。1578年の耳川の戦いでは大友宗麟の大軍を九州最大規模の激戦で壊滅させ、島津の九州制覇を一気に加速させた。豊臣秀吉への服従後、1592〜1598年の朝鮮出兵では総大将格として参戦。1598年の泗川の戦いでは約7,000の兵で明・朝鮮連合軍数万と激突し、大勝利を収めた。明軍はその凄まじさを「鬼石曼子(デーモン・シマズ)」と恐れた。1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、西軍の敗走が始まると徳川の大軍が包囲する中を正面から突破する「島津の退き口」を敢行。甥・豊久らが捨て奸として命を捨てて殿を務める中、義弘は奇跡的に薩摩へ生還した。1619年に85歳で没した。