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親鸞
像
親鸞
浄土真宗開祖
1173-1263 · 享年 90歳
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驚
へぇ、と思う三話
其 一
悪人正機——「悪人こそ救われる」という逆説の救済論
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親鸞の思想の核心「悪人正機」は、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(善人でさえ往生できるのだから、悪人はなおさら往生できる)という逆説的な救済論。自らの力で悟りを開こうとする「自力」ではなく、阿弥陀仏の「他力本願」によってこそ、煩悩深い悪人が救われるとした。この思想は僧侶特権的な仏教を否定し、庶民にも開かれた信仰を提供した。浄土真宗は後に日本最大の仏教宗派に発展し、一向一揆など歴史的な民衆運動の精神的基盤となった。
地
親鸞を訪ねる
8 ヶ所
足跡をたどって、実際に巡る。
西本願寺
京都府
東本願寺
京都府
寺
延暦寺横川
滋賀県
寺
築地本願寺
東京都
寺
西光寺
東京都
寺
東本願寺(慈光山)
東京都
寺
北御堂(本願寺津村別院)
大阪府
寺
常敬寺
東京都
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深
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生
生涯をくわしく
生い立ちから最期まで
1173年、京都日野の下級貴族・藤原有範の子として生まれた。幼名は松若丸。9歳で天台宗の比叡山に入り、慈円のもとで20年間修行した。しかし修行を重ねるほどに自身の煩悩の深さを痛感し、既存の仏教では救われないという絶望感を抱いた。1201年、29歳で六角堂に参籠し聖徳太子の夢告を受けた後、法然の元に赴いて専修念仏の教えに帰依した。この出会いは親鸞の生涯を決定づけた。1207年の承元の法難では念仏弾圧により法然が土佐に、親鸞が越後に流罪となり、初めて俗名・還俗させられた。赦免後は関東の稲田(茨城県)に移り、20年にわたって民衆への布教活動に従事した。晩年は京都に戻り、主著「教行信証」を著して阿弥陀如来の本願を中心とした浄土真宗の教義を体系化した。「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(悪人正機)という逆説的な救済論は、あらゆる人間の救済を説く革命的思想であった。1263年に90歳で入寂した。
人
人物像
深い煩悩を自覚し、自らを「愚禿親鸞」と名乗った謙虚さ。僧侶でありながら公然と妻帯し、戒律主義を否定した革命的な宗教者。庶民に寄り添う姿勢を貫いた。
義
歴史的意義
浄土真宗は日本最大の仏教教団に発展。本願寺は戦国時代には一大勢力を築いた。「悪人正機」の思想は日本思想史に深い影響を与え続けている。
系
家系図
本
本人
親鸞
1173-1263
妻
1182-1268?
恵信尼
越後国の豪族の娘。親鸞を生涯支えた。
言
名言と逸話
「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
事
関連する歴史的事件
1200
鎌倉文化
12〜13世紀、武士政権の成立とともに展開した力強く写実的な文化。公家文化(伝統)と武家文化(新興)、宋・元からの新しい影響が融合した。彫刻では運慶・快慶ら慶派が東大寺南大門金剛力士像(1203年)、興福寺北円堂無著・世親像などの傑作を残した。建築では東大寺南大門の大仏様、円覚寺舎利殿の禅宗様が伝来。鎌倉新仏教(法然・浄土宗、親鸞・浄土真宗、一遍・時宗、栄西・臨済宗、道元・曹洞宗、日蓮・日蓮宗)が庶民に広まった。文学では『平家物語』『方丈記』(鴨長明)『徒然草』(吉田兼好)の三大随筆、勅撰和歌集『新古今和歌集』(1205年・藤原定家ら撰)が成立。
記
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浄土真宗の東本願寺・西本願寺が京都に東西に並ぶのは、江戸初期に徳川家康が意図的に分割した歴史があります。親鸞上人の「他力本願」の思想と、木造建築として世界最大級の御影堂の建築美を解説します。
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悪
悪人正機——親鸞が説いた「悪人こそ救われる」という逆説の救済論
浄土真宗の開祖・親鸞(1173〜1263年)が説いた「悪人正機」は、「善人でさえ往生できるのだから、悪人はなおさら救われる」という逆説的な救済論だ。自力ではなく阿弥陀仏の他力本願によって誰もが救われると説き、僧侶だけの仏教を庶民に開放した。この思想はなぜ革命的なのか、わかりやすく解説する。
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─ 完 ─
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