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廃藩置県・紀尾井坂の変——近代国家を設計した大久保利通の生涯
維新三傑の一人・大久保利通は、廃藩置県で300近い藩を廃止し内務省を設立して近代日本の骨格を作った。旧友・西郷隆盛と西南戦争で対決し、翌1878年に紀尾井坂で暗殺された。「東洋のビスマルク」と呼ばれた改革者の激動の生涯をわかりやすく解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
大久保利通とはどんな人物か
廃藩置県——「東洋のビスマルク」の冷徹な中央集権
西郷との対決——明治六年の政変と西南戦争
紀尾井坂の変——刺客に倒れた明治の巨人
大久保利通ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
大久保利通の肖像写真——明治政府の最高実力者として廃藩置県と内務省設立を主導した「東洋のビスマルク」
Wikimedia Commons / Public Domain
大久保利通(1830-1878)は、明治維新を成し遂げた「維新三傑」の一人として、近代日本の国家制度を最も実質的に設計した政治家です。 薩摩藩出身で、廃藩置県・内務省設立・地租改正など革命的な政策を次々と断行しながら、1878年に暗殺という劇的な最期を遂げました。
大久保利通とはどんな人物か
薩摩の下級藩士から明治政府の最高実力者へ
大久保利通は文政13年(1830年)、鹿児島に薩摩藩の下級武士の家に生まれました。幼い頃から西郷隆盛と親交を結び、ともに薩摩藩の政治中枢に関わるようになりました。
幕末の動乱期に島津斉彬・久光のもとで頭角を現し、薩長同盟の実現と王政復古の大号令に尽力。明治維新後は新政府の実力者として、1871〜73年の岩倉使節団に副使として同行し、欧米12カ国の近代国家の仕組みを徹底的に視察しました。
帰国後は西郷隆盛ら征韓論者との政争(明治六年の政変)に勝利し、内務卿として実質的な最高権力を握りました。「東洋のビスマルク」と称えられたその政治スタイルは、感情よりも国家の論理を優先する冷徹な現実主義でした。
維新三傑と呼ばれる三人の比較
大久保は西郷隆盛・木戸孝允とともに「維新三傑」と呼ばれます。三人はどう違ったのでしょうか。
人物
出身藩
特徴
代表的な役割
西郷隆盛(情)
薩摩
熱情的・武人気質・民衆に慕われる
倒幕の軍事力、西南戦争で最期
大久保利通(意)
薩摩
冷酷・現実主義・強い意志
廃藩置県・内務省設立・近代行政
木戸孝允(智)
長州
理性的・外交巧者・立憲思想
薩長同盟・版籍奉還・廃藩置県
西郷隆盛の肖像——大久保の幼馴染みで盟友、のちに西南戦争で対立することになる「維新三傑」の一人
Wikimedia Commons / Public Domain
廃藩置県——「東洋のビスマルク」の冷徹な中央集権
300近い藩を一夜で廃止した大改革
明治4年(1871年)7月14日、大久保が主導した廃藩置県の詔が発布されました。これにより全国300近い藩が廃止され、府県制へと移行しました。封建制度の根幹をなす藩が一夜で消え去るという、まさに革命的な出来事でした。
この強引とも言える中央集権化は、旧大名・武士たちの強い反発を招きました。しかし大久保は毅然として推し進めました。廃藩に反発する旧藩主が武力蜂起できないよう、事前に薩摩・長州・土佐の藩兵を天皇直属の御親兵として編入するという周到な準備も行っています。
他国では同様の改革が流血革命を引き起こした事例が多い中、日本が無血でこの大転換を成し遂げられた鍵の一つは、この大久保の緻密な根回しにありました。
内務省設立——権力の一元化
さらに明治6年(1873年)、大久保は内務省を設置して初代内務卿に就任しました。行政・警察・産業・地方行政を一元管理する強力な機関を作り上げ、近代国家の骨格を形成したのです。
現代の都道府県制度の原型となる行政システムを設計し、近代日本の国家基盤を一から作り上げた——これが「東洋のビスマルク」と称えられる大久保の最大の功績です。
木戸孝允(1872年撮影)——大久保・西郷とともに「維新三傑」を構成し廃藩置県を共同で推進した長州の政治家
Wikimedia Commons / Public Domain
西郷との対決——明治六年の政変と西南戦争
幼馴染みとの歴史的対立
明治6年(1873年)、政府内で「征韓論」の議論が巻き起こりました。西郷隆盛・板垣退助らが朝鮮への出兵を主張する中、大久保は「まず国内の整備を先にすべき」と内治優先の立場をとり、真っ向から対立しました。
この政争に大久保が勝利したことで、西郷は下野(政府を離れて郷里へ帰ること)を余儀なくされました。幼い頃からともに育った盟友を政治的に追い落としてでも、大久保は国家の論理を優先したのです。
明治10年(1877年)、西郷は不平士族の先頭に立って西南戦争を起こしました。大久保は旧友の反乱を政府軍で鎮圧する決断を下し、西郷は城山で自決して果てました。
「西郷が死んだ」と知らされた大久保は、長い間沈黙したと伝わります。
鹿児島・維新ふるさと館——大久保利通と西郷隆盛を生んだ薩摩の歴史を伝える博物館、甲突川のほとりに建つ
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
紀尾井坂の変——刺客に倒れた明治の巨人
1878年5月14日、赤坂の坂道で
西郷の死からわずか8か月後の明治11年(1878年)5月14日、大久保は赤坂へと向かう馬車の中にいました。
行き先は赤坂の仮皇居——出勤の途中でした。しかし紀尾井坂(現・東京都千代田区)で、石川県の不平士族・島田一郎ら6名が突然馬車を取り囲みました。刺客たちは西南戦争での西郷の死への復讐と、大久保の専制政治への抗議を動機としていました。
大久保は享年49歳(一説に47歳)で、志半ばにして凶刃に倒れました。死後に整理された遺産はほとんどなく、私財まで近代国家の建設に注ぎ込んでいたことが判明しました。
現在、暗殺の地・東京千代田区の紀尾井坂(大久保暗殺の地)には清水谷公園があり、大久保を悼む碑が建てられています。
西郷隆盛終焉の地(城山)——西南戦争で大久保と対決した西郷が最期を遂げた鹿児島の地
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
大久保利通ゆかりの地を訪ねよう
大久保の人生に触れるには、ゆかりの地を訪れるのが最も深い理解への近道です。
鹿児島の大久保ゆかりのスポット
大久保利通像(鹿児島市)は、大久保の故郷・鹿児島市に建てられた銅像で、郷里の英雄として多くの人が訪れます。
大久保利通の墓(青山霊園)は、東京都港区青山の青山霊園にあります。明治の功業を偲びながら参拝できる場所です。
盟友・西郷隆盛を祀る南洲神社も鹿児島にあります。対立した二人の間に流れていた深い絆を、ここで感じることができます。
暗殺の地・東京
紀尾井坂(大久保暗殺の地)は東京都千代田区赤坂にあり、現在は清水谷公園として整備されています。公園内に「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建ち、明治初期の政治史を今に伝えます。
大久保利通ゆかりのスポット一覧では、鹿児島・東京の関連史跡をまとめて確認できます。
よくある質問
大久保利通はなぜ暗殺されたのですか?
明治11年(1878年)5月14日、石川県出身の不平士族・島田一郎らが大久保の馬車を紀尾井坂で襲撃しました。動機は、前年の西南戦争で大久保に敗れた西郷隆盛への復讐と、大久保の専制的な政治への抗議でした。維新三傑のうち木戸孝允は同年5月(1877年)、西郷は9月(1877年)に亡くなっており、大久保は最後まで生き残っていましたが、最も激しい恨みを買う立場にもありました。
「東洋のビスマルク」とはどういう意味ですか?
19世紀のプロイセン(ドイツ)の鉄血宰相ビスマルクは、強引な手法で国家統一を成し遂げた人物として知られています。大久保も廃藩置県・内務省設立など、反発を顧みず強力な中央集権化を断行したことから、欧米の外交官やジャーナリストがビスマルクになぞらえてこの呼び名をつけました。大久保の政治スタイルの本質をよく表した言葉です。
廃藩置県は今の都道府県とどう関係しますか?
廃藩置県(1871年)で設けられた府県制が、そのまま現代の都道府県制度の原型となっています。当初は3府302県という細かい単位でしたが、その後の統廃合を経て現在の47都道府県に整理されました。大久保が設計した「中央政府が全国を一元管理する仕組み」は、150年以上経った現代日本にも脈々と受け継がれています。
最終更新日:2026年6月3日
── 了 ──
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