武甕槌命が全国600社に及ぶ鹿島神社として広まった背景には、国譲り神話と東国への武士団の広がりという二つの歴史的事実がある。
『古事記』の国譲り神話において、天照大神は葦原中国(地上世界)を統治していた大国主命に国を譲るよう交渉した。最初の使者は失敗するが、武甕槌命と経津主命(フツヌシノミコト)が派遣されると、武の威圧によって大国主命の息子・建御名方命を力比べで追い詰め、最終的に国譲りを成功させた。
この神話が武甕槌命の「交渉を成功に導く武威」「試合・勝負に勝つ神力」の象徴となり、武家政権の成立とともに武士たちが鹿島神宮を篤く信仰する土台となった。
平安末期から鎌倉時代にかけて、坂東武者たちが鹿島の神を軍神として祀る文化が急速に広まった。鶴岡八幡宮を拠点とした源頼朝も鹿島神宮を重視し、奥宮の整備に尽力した。鹿島神宮奥宮は武家の祈願所として中世を通じて栄えた。
さらに、春日大社への勧請も武甕槌命の広がりに大きく寄与した。藤原氏の氏神として平城京に創建された春日大社は、鹿島の武甕槌命と香取の経津主命を奈良に迎えた神社であり、都における武神信仰の拠点となった。
鹿島神宮は常陸国一之宮であり、かつ全国の鹿島神社の総本社である。その創建は神武天皇元年(紀元前660年)とも伝えられ、『日本書紀』にも「東国を守る武神」として鹿島神宮の記述が見られる。本殿・拝殿・楼門はいずれも国の重要文化財または国宝であり、御神木の巨木が立ち並ぶ森は「神の森」として今も保護されている。