JR鎌倉駅東口から徒歩12分
神奈川県鎌倉市大町3-1-22
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穢れ祓い・心身の浄化・邪気払い。禊(みそぎ)や護摩の伝統に連なる。
御祭神「阿弥陀如来」のご神徳に由来
嘉禄元年(1225年)、北条政子が願行上人を開山として建立した長楽寺を前身とする浄土宗の古刹。政子はこの年に69歳で没し、寺号「安養院」はその法名に由来する。本尊の阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作で市指定文化財。境内の宝篋印塔は政子の供養塔として伝わる。坂東三十三観音霊場の第三番札所でもあり、千手観音を安置する観音堂には多くの巡礼者が訪れる。ツツジの名所としても知られ、春には境内を彩る。鎌倉駅から徒歩約10分。
嘉禄元年(1225年)、北条政子が願主となり、律宗の名僧・願行上人(審海)を開山として長楽寺を建立。政子は同年7月11日に69歳で没し、この寺で葬儀が営まれた。政子の法名「安養院殿如実妙観大禅定尼」から「安養院」の寺号が生まれた。鎌倉時代を通じて北条氏の庇護を受けたが、元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡に伴い衰退。元禄年間(1688-1704年)に近隣の善導寺と統合され現在の姿となった。本尊の阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作で鎌倉市指定文化財。境内の北条政子供養塔(宝篋印塔)は鎌倉時代の石造美術の優品。坂東三十三観音霊場の第三番札所で、観音堂には千手観音が安置されている。
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1205年(元久2年)、北条義時が二代執権に就任した。初代執権・父の北条時政が政子・義時らに追放された牧氏事件(1205年)の直後、義時が執権の地位を継いだ。義時は実朝将軍を擁しながら幕府の実権を掌握し、有力御家人の排除(比企能員の変・畠山重忠の乱など)を経て、北条氏による執権政治の基盤を固めた。1221年の承久の乱では後鳥羽上皇を打倒して朝廷への支配を確立し、武家政権の事実上の最高権力者となった。義時の執権政治は鎌倉幕府の黄金期を作り上げた。
1221年5月、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発して起こした討幕の乱。朝廷方は畿内・西国の武士を集めたが、鎌倉の北条政子が御家人たちに頼朝の恩を説いて結束を呼びかけ、幕府軍は総勢十九万ともいわれる大軍で京都へ進撃した。朝廷軍は美濃の宇治川・木曽川などの防衛線を突破され、わずか一ヶ月で京都が陥落。後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ配流され、仲恭天皇は廃位された。この乱の後、幕府は京都に六波羅探題を設置し朝廷を監視下に置いた。武家政権が朝廷を完全に支配下に置いた日本史の一大転換点。
義時は姉・政子と共に鎌倉幕府を支えた二代執権。嘉禄元年(1225年)は義時の死の翌年にあたり、姉の政子はこの長楽寺を建立した直後に後を追うように没した。北条氏の礎を築いた姉弟は、わずか1年の間に相次いで世を去った。
嘉禄元年(1225年)、政子は願行上人を開山として長楽寺(後の安養院)を建立した。同年7月に69歳で没し、この寺で葬儀が営まれた。寺号「安養院」は政子の法名に由来し、鎌倉時代を通じて北条氏の庇護を受けた。
安養院の前身である長楽寺は、頼朝の死後に妻・政子が建立した寺である。頼朝が鎌倉に築いた武家政権の礎の上に、政子がその菩提を弔う場を設けたことを象徴する。
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