正治元年(1199年)正月の源頼朝急死後、二代将軍頼家の側近として権勢を振るっていた梶原景時は、同年10月に御家人結城朝光の発言を讒言として頼家に告発した。これを契機に三浦義澄・和田義盛・畠山重忠ら66名の御家人による弾劾連判状が頼家に提出され、景時は所領を没収されて12月に鎌倉を追放された。所領のあった相模国一宮を経て、京都の後鳥羽上皇に仕官すべく西上した一行は、正治2年(1200年)正月20日、駿河国狐崎(現・静岡市清水区横砂)に差し掛かったところで地元武士・吉香小次郎友兼ら一千余騎の襲撃を受けた。景時は嫡男・景季、次男・景茂、三男・景時頼らと共に応戦したが衆寡敵せず、梶原山の山頂まで退い…