相模国梶原(現・神奈川県鎌倉市梶原)を本拠とした桓武平氏鎌倉氏流の武将。父・梶原景清は源義朝に従ったとされる。治承4年(1180)8月、源頼朝の挙兵に対しては当初平家方として大庭景親軍に属し、石橋山合戦で頼朝を追討する側に立った。しかし山中の洞窟に身を潜める頼朝を発見しながらこれを見逃した「梶原の見逃し」が、後の鎌倉幕府成立を決定づけた歴史的瞬間とされる。間もなく頼朝に帰参すると、その教養と実務能力で急速に台頭。文官の家系で漢籍に通じ「歌うたう武士」とも称された景時は、鎌倉殿の側近として侍所所司(次席)、播磨・美作両国守護を兼任した。寿永3年(1184)の一ノ谷合戦・元暦2年(1185)の壇ノ浦合戦では源義経の軍奉行として平家追討に従軍したが、義経との確執は深刻で、屋島合戦における逆櫓論争や戦後の讒言が後世「義経追討の元凶」と語られる原因となった。建久10年(1199)正月の頼朝急死後、二代将軍頼家の補佐役となるも、御家人結城朝光の発言を讒言と告発したことから三浦義澄・和田義盛ら有力御家人66名による弾劾連判状が頼家に提出され、鎌倉を追放された。正治2年(1200)正月、京へ上る途中の駿河国清見関(現・静岡市清水区)で在地武士の襲撃を受け、長男・景季ら一族23名と共に戦死。享年61。鎌倉殿の13人の最初の脱落者となった。2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で中村獅童が演じ、再評価が進んだ。