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PERSON
梶原景時
梶原景時
頼朝の右腕・侍所所司
1140?-1200 · 享年 60歳
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生涯
相模国梶原(現・神奈川県鎌倉市梶原)を本拠とした桓武平氏鎌倉氏流の武将。父・梶原景清は源義朝に従ったとされる。治承4年(1180)8月、源頼朝の挙兵に対しては当初平家方として大庭景親軍に属し、石橋山合戦で頼朝を追討する側に立った。しかし山中の洞窟に身を潜める頼朝を発見しながらこれを見逃した「梶原の見逃し」が、後の鎌倉幕府成立を決定づけた歴史的瞬間とされる。間もなく頼朝に帰参すると、その教養と実務能力で急速に台頭。文官の家系で漢籍に通じ「歌うたう武士」とも称された景時は、鎌倉殿の側近として侍所所司(次席)、播磨・美作両国守護を兼任した。寿永3年(1184)の一ノ谷合戦・元暦2年(1185)の壇ノ浦合戦では源義経の軍奉行として平家追討に従軍したが、義経との確執は深刻で、屋島合戦における逆櫓論争や戦後の讒言が後世「義経追討の元凶」と語られる原因となった。建久10年(1199)正月の頼朝急死後、二代将軍頼家の補佐役となるも、御家人結城朝光の発言を讒言と告発したことから三浦義澄・和田義盛ら有力御家人66名による弾劾連判状が頼家に提出され、鎌倉を追放された。正治2年(1200)正月、京へ上る途中の駿河国清見関(現・静岡市清水区)で在地武士の襲撃を受け、長男・景季ら一族23名と共に戦死。享年61。鎌倉殿の13人の最初の脱落者となった。2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で中村獅童が演じ、再評価が進んだ。
人物像
武芸と教養を兼ね備えた文武両道の人物。漢籍に通じ和歌も詠む「歌うたう武士」として知られ、頼朝からは絶大な信頼を受けた。一方で讒言を辞さず御家人からは「鎌倉ノ本体ノ武士」と恐れられた冷徹さも併せ持つ。義経との確執に象徴される潔癖な性格と、組織人としての忠誠心が同居していた。
歴史的意義
石橋山での「見逃し」は鎌倉幕府成立の歴史的転機として語り継がれ、頼朝側近として侍所制度の整備に貢献した。一方で義経讒言の汚名と弾劾追放という悲劇的結末から、長く「奸臣」のイメージで語られたが、近年は『吾妻鏡』編纂時の北条氏による悪役化との指摘もあり、再評価が進む。鎌倉七口の一つ・寿福寺裏の梶原景時邸跡や駿河の墓所が史跡として残る。
辞世の句
辞 世 の 句
主の恩 受けし二十年 一夜にて 失せにけるとは 何の報いぞ
逸話・エピソード
石橋山の見逃し
治承4年(1180年)8月23日、石橋山合戦で敗走した頼朝を山中の洞窟に発見した景時は、これを大庭景親に報告せず見逃した。この決断が鎌倉幕府成立を決定づけた歴史的瞬間と語り継がれる。
逆櫓論争
元暦2年(1185年)2月の屋島合戦前、悪天候での船出を主張する義経と慎重論を唱える景時が対立。義経は「逃げる用意を語る武士は信じられぬ」と一蹴し、両者の確執は決定的となった。
弾劾と滅亡
正治元年(1199年)10月、結城朝光の発言を讒言として将軍頼家に告発したことが裏目に出る。三浦義澄・和田義盛ら御家人66名の連判による弾劾状で鎌倉を追放され、翌1200年正月、駿河清見関で一族23名と共に戦死した。
梶原景時 年表
1180
石橋山の戦いで敗走する頼朝を匿い、命を救う
1184
一ノ谷の戦い。侍所所司に就任
1185
壇ノ浦の戦い。義経との対立が激化
1189
奥州合戦に従軍
1199
頼朝死去。66人の御家人から弾劾される
1200
鎌倉を追放。駿河国で一族と共に討たれる(梶原景時の変)
ゆかりの地 — 5
─ 完 ─
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