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熊野那智大社
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熊野那智大社
和歌山県
創建
317
種別
神社
アクセス
JR紀伊勝浦駅からバス30分・那智山下車徒歩10分
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
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基本情報
神社
創建 317
1709年目
御祭神・御本尊
熊野夫須美大神
ご利益
浄化・お祓い
延命長寿
極楽往生
穢れ祓い・心身の浄化・邪気払い。禊(みそぎ)や護摩の伝統に連なる。
御祭神「熊野夫須美大神」のご神徳に由来
概要
熊野三山の一つで那智の滝を御神体とする世界遺産の古社。落差133メートルの那智の滝は日本最大の直瀑で、隣接する青岸渡寺の三重塔と滝の景観は日本を代表する絶景として広く知られる。熊野古道の終着点として古来より無数の巡礼者を迎え入れてきた聖地で、祭神・熊野夫須美大神は縁結び・農業・漁業の神として崇敬される。「紀伊山地の霊場と参詣道」のユネスコ世界遺産を構成する最重要地の一つで、熊野本宮大社・熊野速玉大社と並ぶ熊野信仰の中核を成す。
由緒
熊野那智大社の創建年代は不明だが、仁徳天皇の御代(4〜5世紀頃)に現在地へ社殿を造営したと伝わる。もとは那智の滝そのものを御神体とする自然崇拝に始まり、滝壺付近での祭祀が原初の形とされる。7世紀には修験道の聖地として知られるようになり、役小角がこの地で修行したと伝わる。奈良・平安時代を通じて皇族・貴族の熊野詣が盛んに行われ、特に宇多法皇(907年)以降の歴代上皇による熊野御幸が制度化された。11〜12世紀には院政期の上皇による「熊野御幸」が繰り返され、白河上皇9回、鳥羽上皇21回、後白河法皇34回、後鳥羽上皇28回と記録され、特に後白河法皇の34度の参詣は熊野信仰の最盛期を象徴する。中世には武…
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源頼朝とのつながり
源頼朝は熊野信仰を篤く信奉し、鎌倉幕府成立後も熊野三山への奉幣・祈願を欠かさなかった。熊野別当家は源平合戦期に源氏側に与し、湛増(たんぞう)が壇ノ浦合戦に水軍を率いて参戦したことで熊野水軍は鎌倉幕府の重要な海軍力となった。頼朝は文治年間(1185-1190年)に熊野三山に多くの所領を寄進し、熊野信仰を武家政権の宗教的支柱の一つに位置づけた。
go-shirakawaとのつながり
後白河法皇(1127-1192)は生涯で34度に及ぶ熊野御幸を行い、歴代天皇・上皇の中で最多を記録した。法皇の熊野信仰は院政期の宗教政策の中核を成し、熊野三山への所領寄進・社殿造営支援・神輿渡御の整備など多岐にわたる庇護を行った。法皇の御幸は熊野信仰を全国に広める原動力となり、「蟻の熊野詣」の文化的基盤を築いた。
北条政子とのつながり
北条政子も熊野信仰を篤く信奉し、頼朝亡き後の鎌倉幕府の宗教政策において熊野三山への庇護を継続した。政子は熊野那智への代参や祈願を行い、源氏一門の鎮魂と幕府の安泰を祈った。鎌倉時代を通じて、執権北条氏のもとで熊野信仰は武家社会に深く浸透し、「蟻の熊野詣」と称される庶民参詣の隆盛を支える基盤となった。
役行者とのつながり
修験道の開祖・役小角(役行者)は7世紀後半にこの地で修行を行い、那智の滝を聖地として位置づけたと伝わる。那智山一帯はその後、熊野修験の根本道場として発展し、那智の滝行者・那智先達と呼ばれる修験者たちが平安時代以降、全国の修験道のネットワークを形成した。

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