寿永3年(1184年)1月、父・木曾義仲が宇治川の戦いで源範頼・義経軍に敗れ粟津にて討死すると、鎌倉に人質として留め置かれていた嫡男・木曾義高(清水冠者、源義仲の子、1173年生)は処刑の命を受けた。同年2月、義高は鎌倉を脱走したが、武蔵国入間河原で捕捉され、粟船(現・神奈川県鎌倉市大船)において追討・斬首されたと伝わる。享年11歳とされる。この塚は義高を葬った地として後世に「木曾塚」と呼ばれるようになったと伝えられる。中世以降、義高の悲劇は『吾妻鏡』などに記され、哀れな最期を遂げた少年武将への追慕が地域に根付いた。近世には隣接する粟船稲荷とともに地域住民による管理・信仰が続けられたとされる。…