滋賀県大津市南滋賀町の標高336mの山頂に位置する、元亀元年(1570年)に織田信長の重臣・**森可成**(もりよしなり)が築いた**山城跡**。本丸・二の丸・三の丸の三段構成で、南北170m×東西45mの規模を誇る。**安土城築城(1576年)以前の最古級の織田方石垣**(野面積み)が本丸・二の丸に現存し、信長の城郭建築技術の源流として学術的に重要な遺構である。
城が歴史の表舞台に立ったのは築城の年、元亀元年9月——**宇佐山の戦い**である。浅井長政・朝倉義景・六角義賢と比叡山延暦寺の僧兵からなる3万超の連合軍が押し寄せ、わずか1,000の兵で籠城していた森可成は城を死守しつつ坂本の地で最後の抵抗を試みた。9月20日、可成は**織田信治**(信長の弟)・**青地茂成**らとともに坂本で討死した(享年48)。しかし城は落ちず、可成の奮戦が浅井・朝倉連合軍の京都侵攻を食い止め、信長の背後…
宇佐山城は元亀元年(1570年)、織田信長の命を受けた**森可成**(もりよしなり)によって大津市南滋賀の標高336mの山頂に築かれた。可成は「攻めの三左(さんざ)」と称された信長きっての猛将で、尾張以来の歴戦の武将である。琵琶湖西岸の湖西地域を押さえ、山中越えを通じた京都への北方回廊を遮断するというのが城の戦略的役割だった。
元亀元年の永禄年間、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たしたが(1568年)、北方では浅井長政(旧盟友)が朝倉義景と結んで反信長連合を形成。同年6月の**姉川の戦い**で浅井・朝倉を撃退した後も、連合軍は琵琶湖北岸から南進を続けた。これを受けて宇佐山城が急造され、守将とし…