社伝によれば、平安時代の寛仁年中(1017〜1020年)、関白・藤原道長が当地に来遊した際、能見堂の高みから望む松に覆われた小山が塗桶の形に似ていることから「塗桶山」と名付け、その地に富士の神・浅間大神(木花之佐久夜毘売命)を勧請したのが当社の起こりと伝わる。以後、谷津の地の鎮守として崇敬を集め、江戸時代には谷津村の鎮守社として村人の信仰を支えた。木花咲耶姫は炎の中で皇子を産んだ神話から安産・子育ての守護神とされ、当社も安産の神として広く信仰された。寛正4年(1463年)には江戸の医師が御神供田を奉納したと伝わり、これにちなんで祭典の際に赤飯を献じる習わしが今日まで続くという。明治の神仏分離を…