慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)に与した真田昌幸・信繁(幸村)父子は、東軍・徳川家康に敗れ、死罪を免じられる代わりに紀州高野山への配流を命じられた。これは嫡男・信之(東軍として戦功)の嘆願と、家康の直臣・本多忠勝・榊原康政の取りなしによるものといわれる。父子は当初、高野山の塔頭・蓮華定院に入ったが、のちに山麓の九度山に屋敷を構えて移り住み、以後14年間をここで過ごした。昌幸は慶長16年(1611年)に九度山で死去し、この地で生涯を終えた。信繁(幸村)は翌慶長19年(1614年)の大坂冬の陣を経て、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に参陣するべく九度山を脱出し、大坂城に…