文治5年(1189年)閏4月、奥州平泉・衣川館で藤原泰衡に襲われ自刃した源義経の首級は、新田冠者高平によって美酒に浸され腰越まで送られた。同年6月13日、和田義盛とともに首実検の正使を務めたのが梶原景時である。『吾妻鏡』はこの日を「義盛景時等於腰越浦見実」と記し、頼朝の鎌倉入りを阻まれた義経はついに兄の前にすら晒されず、二人の宿老の検分のみで葬られた。景時はかつて一ノ谷・屋島・壇ノ浦で義経と並んで戦い、しかし軍奉行として「逆櫓論争」以来義経と激しく対立し、その讒言が義経追討の端緒となったと『平家物語』が伝える人物——景時にとって義経の首実検は、自らが断罪した相手の死を最後に見届ける儀式であった。後に宝治3年(1249年)、伝承では義経の首が境川を遡って漂着したこの地に、悲劇の英雄を慰めるため白旗神社が祀られ、皮肉にも景時が引導を渡した義経が藤沢の鎮守として永く崇敬されることとなった。