開城後、会津藩士の多くは斗南藩(現青森県・下北半島)へ移住を命じられた。斗南の地は当時の標準的な藩領としては極めて貧しく、厳寒の気候の下で多数の元藩士が困窮した。この移住の歴史は、戊辰戦争後における会津という共同体の受難として後世に伝えられている。
開成山公園(郡山)は、明治期に会津移住者とその関係者が郡山の荒野を開墾して作り上げた土地の近傍に位置する。郡山の農業開拓は、戊辰戦争後の会津人の苦難と再起の象徴として地域史に刻まれている。
会津という地域が今日においても戊辰戦争の記憶を強く保持している事実は、敗者の側からの歴史記憶が近代日本においていかに継承されてきたかを示す。勝者によって書かれた「明治維新史」に対して、会津という「視点」から歴史を見直すことが、日本近代史の多角的理解に不可欠である。
会津を訪れる者は、単に白虎隊の悲劇を消費するのではなく、維新という歴史的転換が日本社会に何を生み出し、何を喪失させたかを問う視点を持って欲しい。飯盛山の頂に立ち、さざえ堂(会津)の螺旋に身を委ね、阿弥陀寺(会津)で戦没者の霊に向き合う——この三点を巡ることで、幕末という時代の重さを実感することができる。会津の歴史は、明治日本が選ばなかった道の痕跡として、現代においても深い問いを投げかけ続けている。