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学問のすすめ——「天は人の上に人を造らず」と福沢諭吉の近代思想
福沢諭吉が1872年から刊行した「学問のすすめ」の冒頭「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は、封建的身分制度を否定した近代日本最初の啓蒙宣言とも言える。累計340万部のベストセラーとなり、慶應義塾創設と並び、近代日本の独立精神の象徴となった学者の思想を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
福沢諭吉とはどんな人物か
「学問のすすめ」の核心——「独立自尊」の思想
慶應義塾の創設——「実学」の理念を実践した教育機関
福沢諭吉ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
福沢諭吉の肖像写真(1891年)——「学問のすすめ」の著者・慶應義塾創設者として近代日本の啓蒙思想を牽引した
Wikimedia Commons / Public Domain
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」——この言葉を聞いたことがない日本人はほとんどいないでしょう。 明治5年(1872年)から刊行が始まった福沢諭吉の「学問のすすめ」(全17編)の冒頭は、封建的身分制度が色濃く残る明治初期に、個人の自立と平等を訴える革命的な宣言でした。累計340万部を超えるこのベストセラーは、どのような思想を私たちに伝えているのでしょうか。
福沢諭吉とはどんな人物か
大分・中津から出発した啓蒙思想家
福沢諭吉は天保6年(1835年)、豊前国(現・大分県中津市)に薩摩藩士の下役の子として生まれました。翌年に父を亡くし、一家は中津藩士として中津へ戻ります。
福沢は中津の藩士の家として育ちながらも、身分制度の不条理さを強く感じていたと伝わります。大分県中津市に残る福澤諭吉旧居は、19歳まで過ごしたこの旧宅で、国の史跡に指定されています。
嘉永6年(1853年)頃に長崎に出て蘭学を学び始め、翌年には大坂の緒方洪庵の適塾(適々斎塾)に入門。ここで蘭学・英学を猛烈な勢いで修め、塾頭まで上り詰めました。
適塾(大阪市)——福沢諭吉が蘭学を学んだ緒方洪庵の塾。「実学」の精神はここで培われ「学問のすすめ」の思想的源泉となった
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
三度の渡航で見た西洋の「実力主義社会」
安政7年(1860年)に咸臨丸でアメリカへ、文久2年(1862年)に幕府使節団の一員としてヨーロッパへ、慶応3年(1867年)に再びアメリカへと、三度の渡航を経験した福沢は、西洋の政治・経済・教育制度を直接目で見て学びました。
「西洋には人の上に人を作らない、個人の実力で地位が決まる社会がある」——この体験が「学問のすすめ」の根底にある思想を形成しました。
慶応4年(1868年)には慶應義塾(現・慶應義塾大学)を創設。「実学(じつがく)」——実用的な知識と独立の精神——を育てる場として位置づけました。東京都中央区明石町には慶應義塾発祥の地として記念碑が建てられています。
「学問のすすめ」の核心——「独立自尊」の思想
「天は人の上に人を造らず」の真意
「学問のすすめ」の冒頭の一文は、現代の私たちにはごく当然のことのように聞こえますが、明治初期の日本社会においては革命的な主張でした。
武士・農民・職人・商人という厳格な身分制度(士農工商)が数百年にわたって続いてきた社会で、「生まれながらの身分は関係ない、学問によって誰でも賢くなれる」と説いたのです。
福沢が「学問のすすめ」で訴えた主な主張をまとめると:
主張
内容
現代への影響
独立自尊
他人に依存せず自分で考え行動する
個人の自律・民主主義的精神
実学の重視
役に立つ知識を身につけよ
実用教育・職業訓練の重視
平等主義
生まれではなく学問で差がつく
学歴社会・機会均等の考え方
文明開化
西洋の合理的な知識を積極的に取り入れよ
明治以降の近代化路線
大阪城——適塾が置かれた大阪は、幕末・明治に蘭学・英学の拠点として福沢諭吉ら多くの知識人を育てた
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
なぜ340万部も売れたのか
「学問のすすめ」は明治5年(1872年)から明治9年(1876年)にかけて全17編が刊行され、当時の人口約3,400万人に対して340万部以上が売れました。当時の日本人の約10人に1人が読んだことになります。
これほどまでに広く読まれた理由は、明治維新による身分制度の解体と、西洋的な「個人の自由と平等」の思想が一致したタイミングだったからです。旧武士も農民の子も、等しく「学問さえすれば出世できる」という希望が、人々の心に響きました。
また、福沢は難しい漢文体ではなく、読みやすい平易な文体で書いたことも普及の大きな要因でした。
岩倉具視の肖像——岩倉使節団(1871〜73年)は福沢諭吉の渡航体験と同様に欧米視察を行い、明治の近代化路線を決定づけた
Wikimedia Commons / Public Domain
慶應義塾の創設——「実学」の理念を実践した教育機関
1858年・築地鉄砲洲の蘭学塾から始まった
慶應義塾の起源は安政5年(1858年)、福沢が中津藩江戸中屋敷(現・東京都中央区明石町)の一室に開いた小さな蘭学塾にさかのぼります。当初は家塾でしたが、明治元年(1868年)に「慶應義塾」と命名され、明治4年(1871年)に現在の三田キャンパスへ移転しました。
福沢が設立した慶應義塾の特徴は、政府や国家の支援に頼らない私立の独立した教育機関であることにありました。「独立自尊」の精神を、学校経営そのものでも体現しようとしたのです。
中津城と故郷の誇り
福沢の出身地・中津には中津城跡があります。天正16年(1588年)に黒田如水(官兵衛)が築いた水城で、日本三大水城の一つとされます。福沢の生きた幕末・明治初期の中津の空気を感じながら参拝できる場所です。
勝海舟の肖像——幕末の開国論者・海軍創設者として福沢諭吉と同時代を生きた明治維新の立役者の一人
Wikimedia Commons / Public Domain
福沢諭吉ゆかりの地を訪ねよう
大分・中津のゆかりの地
福澤諭吉旧居(大分県中津市)は、福沢が19歳まで過ごした旧宅です。国の史跡に指定されており、隣接する福澤記念館では遺品・著書を多数展示しています。「学問のすすめ」の精神を育んだ地として、中津を訪れた際にはぜひ参拝してみましょう。
中津城跡も中津市内にあります。黒田官兵衛ゆかりの名城跡で、福沢の故郷の歴史的背景を感じることができます。
東京のゆかりの地
慶應義塾発祥の地(東京都中央区)は、東京の築地(現・明石町)に建つ記念碑です。福沢が1858年にここで蘭学塾を開き、慶應義塾の歴史が始まりました。聖路加国際病院の正面に立っており、現地を訪れて近代日本教育の原点に思いを馳せることができます。
福沢諭吉ゆかりのスポット一覧から、大分・東京に残る関連史跡をまとめて確認できます。
よくある質問
「学問のすすめ」は全部読まなくてはいけませんか?
全17編を通して読む必要はありません。最も有名な第1編(「天は人の上に人を造らず」で始まる冒頭)だけでも十分に核心がつかめます。第1編は数千字程度で、現代語訳版も多く出版されています。中学生でも読めるやさしさで書かれていますので、ぜひ原文に近い現代語訳を手に取ってみてください。
福沢諭吉はなぜ一万円札の顔になったのですか?
福沢諭吉は2024年まで長年にわたって一万円札の肖像に採用されていました。近代日本の教育・啓蒙に多大な貢献をした人物として広く知られており、その業績の大きさと知名度の高さが選ばれた理由です。2024年からは渋沢栄一に交代しています。渋沢も明治の実業家として同時代を生きた人物で、福沢とは異なるアプローチで近代日本を支えました。
慶應義塾大学と「学問のすすめ」はどう関係しますか?
福沢諭吉が創設した慶應義塾は、「学問のすすめ」の「実学」と「独立自尊」の理念を体現する学校として設立されました。政府や国家の支援に頼らない私立の独立した教育機関であることが、その精神の実践でした。「独立自尊」は現在も慶應義塾のモットーとして受け継がれており、大学の校是(学校の基本理念)になっています。
最終更新日:2026年6月3日
── 了 ──
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