建仁3年(1203年)7月、二代将軍・源頼家が重病に倒れました。後継者問題が浮上する中、北条時政は好機を得ました。時政は頼家の病を利用し、将軍継承の調整を名目に動き始めます。
能員は病床の頼家から、「北条時政を討て」という密命を受けたとも伝えられます。しかし北条方にこの情報が漏れ、時政は先手を打つことにしました。
建仁3年9月2日、北条時政は仏事の法要を口実に比企能員を名越の北条邸へ招きました。仏事への招待に丸腰で訪れた能員を、時政はその場で謀殺しました。
謀殺直後、北条の軍勢が比企谷の比企邸を急襲しました。能員の娘・若狭局、能員の嫡孫で6歳の一幡をはじめ、比企一族は壮絶な抵抗の末に滅亡しました。
鎌倉幕府の権力闘争の中でも際立ってスキャンダラスなこの事件は、「13人の合議制」の崩壊の象徴として歴史に刻まれています。
以下は、鎌倉幕府初期の権力闘争における主な事件です。