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和田義盛と和田合戦——鎌倉幕府初代侍所別当が散った戦いの記録
和田義盛は源頼朝の挙兵以来の功臣で、鎌倉幕府の初代侍所別当として御家人を統率した弓の名手。頼朝の死後、台頭する北条義時との対立を深め、建暦3年(1213年)に挙兵した和田合戦では鎌倉市中で激しく戦ったが敗れ、一族もろとも滅んだ。この戦いが北条氏の得宗専制への転換点となった鎌倉時代最大の内乱を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
和田義盛とはどんな人物か
頼朝の信頼厚き宿老として
和田合戦——鎌倉市中の激戦
和田合戦の歴史的意味
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
和田義盛の肖像——鎌倉幕府初代侍所別当として御家人を統率した弓の名手
Wikimedia Commons / Public Domain
建暦3年(1213年)5月、鎌倉の町中で未曾有の武力衝突が起きました。鎌倉幕府の重鎮・和田義盛が北条義時に反旗を翻した「和田合戦」です。
この戦いの結果、幕府創設以来の功臣・和田一族は滅亡し、北条氏による「得宗専制」への道が大きく開かれました。
和田義盛とはどんな人物か
三浦一族の武将・弓の名手
和田義盛(1147〜1213年)は、三浦半島を本拠とした三浦一族の武将です。三浦義明の孫(杉本義宗の子)として生まれ、三浦半島の杉本城周辺に育ちました。
弓の名手として広く知られ、源頼朝の挙兵(1180年)当初から従って数々の合戦で武勇を示しました。鎌倉幕府が成立すると**初代侍所別当(さむらいどころべっとう)**に任命されました。
侍所別当とはどんな役職か
機関名
役割
侍所(さむらいどころ)
御家人(幕府の家臣)の統率・軍事・警察を司る
公文所→政所(まんどころ)
行政・財政
問注所(もんちゅうじょ)
訴訟・裁判
侍所はこの三機関の一つで、武士団の組織・指揮を司る幕府の軍事中枢です。その別当(長官)は文字通り「武士の頂点に立つ要職」であり、義盛は幕府創設から終生この職を担いました。
鶴岡八幡宮の楼門——和田合戦の戦場に近い鎌倉の総鎮守
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
頼朝の信頼厚き宿老として
十三人の合議制
1199年に源頼朝が急死すると、幕府は2代将軍・頼家のもとで「十三人の合議制」という体制を取りました。これは有力御家人13人が共同で政務を担う仕組みです。
和田義盛はその13人のうちの一人として名を連ねました。この時点での義盛の地位は、幕府創設以来の功臣として非常に高いものでした。
しかし時代は変わりつつありました。北条時政・北条義時父子が着々と権力を固めていったのです。
比企能員の変と幕府の変化
1203年、頼家の外戚・比企能員が北条時政に攻め滅ぼされました(比企能員の変)。これにより2代将軍・頼家は廃位されて修禅寺に幽閉され、1204年に暗殺されました。
3代将軍・源実朝の時代になっても、実質的な権力は北条義時が握り続けました。義盛は北条義時の権勢の増大に強い危機感を抱いていたといいます。
鶴岡八幡宮の境内——和田合戦の激戦地となった鎌倉の中心地に立つ神社
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
和田合戦——鎌倉市中の激戦
挙兵のきっかけ
建暦3年(1213年)、義盛の甥・胤長(たねなが)が謀反の疑いで捕らえられる事件が起きました。義盛は甥の赦免を求めましたが、北条義時は要求を拒否し、さらに義盛の面前で胤長を流罪にするという屈辱的な処置を取りました。
これが引き金となり、義盛は一族を結集して挙兵を決意しました。
合戦の経過
時期
出来事
建暦3年5月2日
和田義盛が挙兵、鎌倉市中で激戦開始
同日夕刻
和田方が将軍御所に迫る勢いを見せる
5月3日
北条方の援軍と一族の寝返りにより和田方劣勢に
5月3日夕刻
義盛、由比ガ浜での戦闘で討死(享年67)
合戦は鎌倉の中心部・若宮大路周辺から鶴岡八幡宮前まで広がる市街戦となりました。一時は和田方が将軍御所(源実朝が在城)に迫る勢いを見せましたが、北条義時の巧みな策略と援軍により次第に形勢が逆転します。
義盛の最期と和田塚
最終的に義盛は由比ガ浜で戦死し、和田一族の多くが討ち取られました。享年67歳。
現在の鎌倉市材木座・和田ノ辻あたりに和田一族の墓と伝わる和田塚(wada-zuka)があります。「和田塚」という地名は今も残り、鎌倉の街に和田合戦の記憶を刻んでいます。
鶴岡八幡宮の流鏑馬——義盛が得意とした弓術の伝統は鎌倉で今も受け継がれる
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
和田合戦の歴史的意味
北条得宗専制への転換点
和田合戦の最大の意義は、侍所別当の職が和田氏から北条氏に移ったことです。これにより北条義時は政所別当・侍所別当の両方を兼任し、幕府の軍事・行政の両権を一手に握る「執権」としての地位を確立しました。
それまでの幕府は有力御家人の合議制でしたが、和田合戦を境に北条氏による「得宗専制(とくそうせんせい)」へと移行していきます。「得宗」とは北条氏の嫡流(本家)を指す言葉で、以後鎌倉幕府の終わりまで北条得宗家が実権を握り続けました。
御家人社会の縮図
義盛の敗因は単に軍事力の差だけではありませんでした。北条氏の周到な工作により、一部の御家人が義盛側から離反したことも大きな要因です。
鎌倉幕府の権力関係がいかに複雑であったかを示す出来事として、和田合戦は今も歴史研究者の関心を集め続けています。
ゆかりの地を訪ねよう
鶴岡八幡宮は鎌倉の総鎮守であり、和田合戦の戦場に最も近い歴史スポットです。北条政子源頼朝ゆかりの地としても知られ、現地を訪れると当時の地理感覚が分かります。
和田塚(鎌倉市材木座)は、義盛ら和田一族の戦死者を葬ったと伝わる場所です。現在は碑が建てられており、鎌倉散策の途中に立ち寄ることができます。
鎌倉宮(大塔宮)も、鎌倉時代の武家政権の歴史を刻む神社として訪れる価値があります。
和田義盛の人物ページでは、初代侍所別当として幕府を支えた義盛の生涯をさらに詳しく知ることができます。
鶴岡八幡宮の全景——鎌倉幕府の宗社として源頼朝・北条氏・和田義盛らが参拝した歴史の地
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
よくある質問
和田合戦はなぜ「鎌倉最大の内乱」と呼ばれるのですか?
鎌倉幕府の成立から廃絶(1333年)に至る間に起きた内乱の中で、鎌倉市中(現在の鎌倉市内)での戦闘規模が最大だったためです。将軍御所にまで戦火が及んだことが特筆されます。
和田義盛の子孫はどうなりましたか?
和田合戦で義盛の子・義直・義重・朝盛らも討ち取られ、和田一族は事実上滅亡しました。ただし義盛の兄弟系統の子孫の一部は生き延びたとされ、後世に続く家系もあったとも言われます。
北条義時はどんな人物ですか?
北条義時は、北条政子の弟で鎌倉幕府第2代執権です。和田合戦・承久の乱(1221年)など主要な危機を乗り越えて北条得宗専制の基礎を確立しました。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(2022年)の主人公として広く知られています。
最終更新日:2026年6月3日
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