建暦3年(1213年)、義盛の甥・胤長(たねなが)が謀反の疑いで捕らえられる事件が起きました。義盛は甥の赦免を求めましたが、北条義時は要求を拒否し、さらに義盛の面前で胤長を流罪にするという屈辱的な処置を取りました。
これが引き金となり、義盛は一族を結集して挙兵を決意しました。
合戦は鎌倉の中心部・若宮大路周辺から鶴岡八幡宮前まで広がる市街戦となりました。一時は和田方が将軍御所(源実朝が在城)に迫る勢いを見せましたが、北条義時の巧みな策略と援軍により次第に形勢が逆転します。
最終的に義盛は由比ガ浜で戦死し、和田一族の多くが討ち取られました。享年67歳。
現在の鎌倉市材木座・和田ノ辻あたりに和田一族の墓と伝わる和田塚(wada-zuka)があります。「和田塚」という地名は今も残り、鎌倉の街に和田合戦の記憶を刻んでいます。