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6歳から人質生活!それでも天下を取った家康の少年時代
6歳で今川家の人質にされた竹千代(後の徳川家康)。親元を離れ、他人の家で過ごした少年時代。でもその境遇が、後の「鳴くまで待とうホトトギス」の忍耐力を育てました。中学生向けにやさしく解説します。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
6歳で「人質」になるということ
人質って何?
実は、途中で別の場所に送られた
石合戦で見せた「リーダーシップ」
「待つ力」の原点はここにあった
現代に例えると?
岡崎・浜松・駿府を訪ねよう
よくある質問
6歳で「人質」になるということ
6歳といえば、今なら小学1年生ですよね。ランドセルを背負って、友達と遊んで、家族に甘えて……。
でも戦国時代の徳川家康(幼名:竹千代)は、6歳でそういう生活を失いました。
「人質」として、親元から引き離されたんです。
人質って何?
戦国時代、弱い大名が強い大名に服従を示すとき、「人質」を差し出すことがありました。
「約束を破ったら、人質を殺す」——それが暗黙のルールです。
竹千代(家康)の父・松平広忠は、今川義元という大名の傘下に入るため、息子の竹千代を人質として駿府(今の静岡市)に送り出しました。
6歳の子供が、知らない土地で知らない人たちに囲まれて生活する。どれほど怖かったことか。
実は、途中で別の場所に送られた
さらに驚きなのは、竹千代の「人質の旅」が最初から今川のところに行かなかったことです。
船で運ばれる途中、なんと織田信長の父・信秀に捕まってしまったんです。つまり竹千代は今川ではなく、最初は織田家の人質になりました。
その後いろいろあって、今川義元のもとで人質生活を続けることになります。
石合戦で見せた「リーダーシップ」
駿府での人質生活の中で、こんな逸話が伝えられています。
ある日、子供たちの「石合戦(いしかっせん)」が行われました。2チームに分かれて石を投げ合う遊びです(今の感覚だと危険すぎますが、当時は普通でした)。
竹千代は人数の少ない劣勢のチームに加わり、なんとそのチームを逆転勝利させました。
この話を聞いた織田信長(子供時代)は「あの竹千代は将来大物になる」と言ったとも伝えられています。
「待つ力」の原点はここにあった
家康の性格を一言で表すなら「忍耐強い」です。
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」——これが家康を例えた有名な言葉。
実は、この忍耐力は人質時代に育まれたとも言われています。
自由に動けない。親に甘えられない。いつ殺されるか分からない——そういう状況の中でも腐らずに、じっと機会を待ち続けた。それが後の家康を形成したんです。
現代に例えると?
6歳で人質という状況を現代に例えるのは難しいですが、「意に反して知らない環境に放り込まれた」という意味では、転校や留学に似た部分があるかもしれません。
最初はつらくて、早く帰りたくて。でも時間が経つと環境に慣れて、新しいことを学んで、むしろそこから力をもらえるようになる。
家康もそうだったのかもしれません。駿府で今川の文化・政治・外交を間近で見ながら、じっと学び続けていた。
岡崎・浜松・駿府を訪ねよう
家康の少年時代と関係が深い場所は、主に3つあります。
岡崎城(愛知県岡崎市)——家康生誕の地。「どうする家康」でも有名になり、家康に関する展示が充実しています。
駿府城(静岡県静岡市)——人質として過ごした今川義元の城があった場所。現在は駿府城公園として整備されています。
浜松城(静岡県浜松市)——成人後に家康が拠点とした城。近くの浜松八幡宮には、しかみ像の戦いで敗走した家康が身を隠した伝説の大楠があります。
徳川家康のゆかりの地一覧で、他のスポットもまとめて確認できます。
よくある質問
人質って、いじめられたりしなかったの?
今川の場合、竹千代(家康)は比較的大切に扱われたようです。礼儀作法や武道、文学なども学んでいました。だからこそ後に役立つ教養が身についたと言えます。
父の松平広忠はなぜ息子を人質に出したの?
当時の松平家は弱小勢力で、強い今川義元に従わなければ生き残れませんでした。苦渋の選択だったはずです。広忠は竹千代を送り出した2年後に亡くなっています。
家康はいつ人質生活を終えられたの?
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれた後です。19歳のとき。13年間の人質生活でした。
最終更新日:2026年6月1日
岡崎城(愛知県岡崎市)——徳川家康生誕の地。竹千代が人質に出る前まで過ごした城
Wikimedia Commons
── 了 ──
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