永禄三年(1560年)の桶狭間合戦について、『信長公記』は「信長は熱田神宮に参拝した後、少数の兵で今川義元の本陣を急襲した」と記す。この合戦は後世「奇襲作戦の成功」として語られることが多いが、史料から確実に言えるのは「信長が少数兵で義元の本陣を討ち取った」という事実のみである。山岳地形を利用した計画的奇襲か、偶発的な遭遇戦かについては、断じるのは早計である。
熱田神宮に現存する「信長塀」(桶狭間合戦の勝利に感謝して信長が奉納したとされる土塀)は、史料上の確証がある数少ない信長関連の現存遺構の一つである。
永禄十年(1567年)、斎藤氏を破って稲葉山城を奪取した信長は、城と城下の地名を「岐阜」と改め、「天下布武」の印を使い始めた。この「天下布武」の意味については「武力で天下を統一する」という解釈が一般的であるが、「武家の制度(武家法)を天下に布く」という解釈も存在し、学術的に確定しているとは言い難い。
岐阜城は金華山山頂に位置し、現在の天守は昭和三十一年(1956年)の鉄筋コンクリート造再建である。山麓の岐阜城信長居館跡では発掘調査が進められており、大型礎石・庭園遺構・金箔瓦が出土している。信長の居館が山頂の城ではなく山麓にあったことは、発掘成果が明らかにした重要な事実である。