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二人の息子を失いながら幕府を守った母——北条政子の悲劇
「尼将軍」と呼ばれた北条政子だが、母としては悲劇の連続だった。長男・頼家は比企の乱後に暗殺され、次男・実朝は鶴岡八幡宮で甥に暗殺された。二人の息子を政治の犠牲にしながらも幕府を守り続けた政子の生涯を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
長男・頼家の悲劇
それでも幕府を支えた政子
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
鶴岡八幡宮——三代将軍・実朝が暗殺された場所。政子が息子二人を失った悲劇の舞台
Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
「政治家として強かった人が、母親としては悲劇の連続だった」。北条政子の人生はそういうものでした。
政子は源頼朝の正室として三代将軍の時代まで幕府を支えましたが、その過程で自分の息子二人を政治の犠牲として失いました。
長男・頼家の悲劇
頼朝の死後(1199年)、長男の源頼家が二代将軍に就きました。しかし頼家の独断専行や比企一族への偏向が問題となりました。
1203年、政子・時政は頼家から将軍職を剥奪し、伊豆の修善寺(静岡県)に幽閉しました。そして翌1204年、頼家は暗殺されました。
北条政子の墓(寿福寺)——二人の息子を失いながらも幕府を守り続けた「尼将軍」の墓所
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
「息子の将軍職を奪い、幽閉した」——現代の感覚では信じがたい決断ですが、政子は幕府の安定のためにそれを行いました。
次男・実朝の暗殺
三代将軍・源実朝は和歌の才能に優れた文化人的な将軍でした。
1219年1月、実朝は鶴岡八幡宮での右大臣就任式の帰り道に、頼家の遺児・公暁に暗殺されました。享年27歳。
源氏の将軍家はここで断絶しました。
それでも幕府を支えた政子
建長寺——政子が幕府を守り続けた時代の鎌倉を代表する禅寺
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
二人の息子を失った政子は1219年に出家しました。しかし政界から引退したわけではありません。将軍が絶えた後も政子は幕府を支え続け、1221年の承久の乱では御家人たちを鼓舞しました。
1225年、政子は67歳で亡くなりました。
ゆかりの地を訪ねよう
鶴岡八幡宮(鎌倉市)は実朝が暗殺された場所です。寿福寺には政子の墓があります。
北条政子のゆかりの地一覧でほかのスポットも確認してください。
よくある質問
政子は本当に「悪い母親」だったの?
頼家を幽閉した事実だけ見ると冷酷に見えますが、当時の政治状況を考えると幕府を守るための最善策という側面もあります。
公暁はなぜ実朝を暗殺したの?
「父・頼家の仇を討つ」と言って実朝を殺したとされますが、黒幕が誰かについては今も研究者の間で議論が続いています。
最終更新日:2026年6月2日
── 了 ──
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