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太平洋を越えてローマへ——伊達政宗の慶長遣欧使節
1613年、伊達政宗は家臣・支倉常長をスペインとローマに派遣した。太平洋・大西洋を渡る壮大な外交使節「慶長遣欧使節」は、政宗の世界的視野を示すものだった。鎖国前夜の日本から世界へ向かったこの使節の意義と結末を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
慶長遣欧使節とは
何のための使節だったのか
ローマ教皇との謁見
残念な結末
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
伊達政宗肖像——太平洋を越えてローマに使節を送った世界的視野の持ち主。慶長遣欧使節を主導した
Wikimedia Commons / Public Domain
「日本の片田舎の大名が、太平洋を越えてヨーロッパに使者を送った」——400年前にそんな壮大な計画を実行した武将がいました。伊達政宗です。
慶長遣欧使節とは
1613年(慶長18年)、伊達政宗は家臣の**支倉常長(はせくらつねなが)**を団長とする使節団を、スペインとローマに派遣しました。これが「慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)」です。
使節団は仙台藩で建造した洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ号」に乗り、太平洋を横断してメキシコ(当時のスペイン領)へ。さらに大西洋を渡ってスペイン本国、そしてローマ教皇のもとへ向かいました。
仙台城——慶長遣欧使節を送り出した政宗の本拠。仙台藩は当時から国際的な視野を持っていた
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
何のための使節だったのか
政宗の目的は「スペインとの直接貿易」だったとされます。
当時、ヨーロッパとの貿易は大きな利益を生みました。政宗はスペインと貿易協定を結び、仙台藩を経済的に豊かにしようと考えたのです。
また「キリスト教の宣教師を仙台領に招く」という条件も提示しました。政宗自身がキリスト教徒だったわけではありませんが、貿易のための外交カードとして利用したと考えられています。
ローマ教皇との謁見
仙台の街——政宗の国際的な志は、現在の仙台が国際都市として発展する礎ともなった
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
支倉常長一行は1615年にスペイン国王フェリペ3世に謁見し、さらにローマで教皇パウルス5世にも謁見しました。
日本人が公式にローマ教皇に謁見したのは、これが初めてのことでした。常長はローマ市民権を与えられ、その肖像画は今もイタリアに残っています。
残念な結末
しかし使節の成果は限定的でした。
使節がヨーロッパに滞在している間、日本では江戸幕府によるキリスト教禁止(禁教令)が厳しくなっていました。「キリスト教を弾圧する国とは貿易できない」とスペイン側は判断し、貿易協定は成立しませんでした。
1620年、常長は失意のうちに帰国しました。約7年に及ぶ壮大な旅は、実利的には実を結ばなかったのです。
しかしこの使節は「鎖国前夜の日本が世界とつながろうとした証」として、歴史的に大きな意義を持っています。2013年には関係資料がユネスコ「世界の記憶」に登録されました。
ゆかりの地を訪ねよう
仙台市の瑞鳳殿・瑞鳳寺は政宗の霊廟で、政宗の世界的視野を物語る地です。青葉山公園(仙台城跡)の政宗像も合わせて訪れたいスポットです。
伊達政宗のゆかりの地一覧でほかのスポットも確認してください。
よくある質問
支倉常長はどんな人物?
伊達政宗の家臣で、慶長遣欧使節の団長を務めました。7年の旅を経て帰国しましたが、日本ではすでにキリスト教が禁止されており、不遇のうちに亡くなったとされます。
サン・ファン・バウティスタ号は今もある?
当時の船は現存しませんが、宮城県石巻市に復元船が展示されていました(老朽化のため2021年に解体)。慶長使節船ミュージアムで関連資料を見ることができます。
最終更新日:2026年6月3日
── 了 ──
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