政宗が東北の覇者となった時期(天正十六〜十八年・1588〜1590年)は、豊臣秀吉がすでに全国統一を完成しつつある時期と重なっていた。政宗はわずか数年の遅れで秀吉の「奥州仕置」を受け、勢力を削減された。「生まれるのが10年早ければ天下人になれた」という評価は後世に流布した言葉だが、史料上の根拠はない。政宗の能力と野心は疑いないが、歴史の構造的な制約の中での活躍であったことを正確に理解すべきである。
使節団が帰国した時点(元和六年・1620年)で、幕府のキリシタン禁制政策はすでに本格化していた。政宗がスペインとの通商を企図していたとすれば、その目標は幕府の外交方針と正面から衝突するものであった。使節に同行した宣教師の存在も、幕府の警戒を高める要因となった。政宗はキリシタンへの関与を否定し、使節の性格を貿易交渉に限定しようとしたが、結果的に成果を得ることができなかった。
大崎八幡宮の本殿・石の間・拝殿は、慶長九年(1604年)に建立された江戸初期の権現造として、その完成度の高さから国宝に指定されている。権現造という建築形式の典型例として学術的価値が高く、同時代の日光東照宮(1616年着工)と比較することで、桃山・江戸初期の社殿建築の発展を理解するうえで不可欠な建造物である。