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「この世をば我が世とぞ思ふ」——藤原道長と望月の歌
平安時代、藤原道長は三人の娘を次々と天皇・皇太子の后とし、外祖父として朝廷の最高実力者となった。1018年、その絶頂で詠んだ「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」は、満月のように完全な権力を表す歌として知られる。摂関政治の頂点を極めた道長を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
摂関政治の頂点
三人の娘を后にした男
望月の歌
栄華の果てに
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
平等院鳳凰堂(宇治)——道長の別荘を子・頼通が寺とした。藤原摂関家の栄華を今に伝える世界遺産
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
「この世は、すべて私のものだ。満月に欠けるところがないように」——こんな自信満々の歌を詠んだ人物がいます。
平安時代の最高権力者・**藤原道長(ふじわらのみちなが)**です。
摂関政治の頂点
平安時代中期、政治の実権を握っていたのは天皇ではなく、藤原氏でした。
藤原氏は「娘を天皇の后にし、生まれた子(孫)を天皇に立て、外祖父(母方の祖父)として政治を動かす」という方法で権力を握りました。これを「摂関政治(せっかんせいじ)」と呼びます。
道長はこの摂関政治を極めた人物です。
平安朝の宮廷儀礼——道長が三人の娘を后とし、外祖父として君臨した摂関政治の世界
Wikimedia Commons / Public Domain
三人の娘を后にした男
道長の権力の源泉は、娘たちでした。
長女・彰子(しょうし):一条天皇の中宮(紫式部が仕えた)
次女・妍子(けんし):三条天皇の中宮
三女・威子(いし):後一条天皇の中宮
なんと三人の娘が、それぞれ天皇の后となったのです。「一家立三后(いっかさんごうをたつ)」——一つの家から三人の后が立つという、前代未聞の事態でした。
道長は天皇たちの外祖父として、朝廷を完全に掌握しました。
望月の歌
石山寺(滋賀)——道長の娘・彰子に仕えた紫式部ゆかりの寺。道長の時代の平安文化を伝える
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
1018年、三女・威子が後一条天皇の中宮に立てられた祝いの宴席で、道長はあの有名な歌を詠みました。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
意味は「この世はすべて私のものだと思える。満月が少しも欠けていないように、私の権力には何の不足もない」。
満月(望月)のように完璧な権力を手にした満足感を表した歌です。これほど露骨に「自分は満ち足りている」と詠んだ歌は珍しく、道長の権力の絶頂を象徴する歌として千年語り継がれています。
栄華の果てに
権力の絶頂を極めた道長でしたが、晩年は病に苦しみました。
道長は壮大な寺院「法成寺(ほうじょうじ)」を建立し、極楽往生を願いました。しかし法成寺は現存せず、道長の栄華の象徴は今は残っていません。
道長の子・頼通(よりみち)が宇治に建てた平等院鳳凰堂は、藤原氏の栄華を今に伝える数少ない建築です。
ゆかりの地を訪ねよう
平等院(京都府宇治市)は道長の別荘を子・頼通が寺にしたもので、藤原摂関家の栄華を体感できる世界遺産です。
道長の娘・彰子に仕えた紫式部ゆかりの石山寺(滋賀県)も平安文化を感じられるスポットです。
藤原道長のゆかりの地一覧でほかのスポットも確認してください。
よくある質問
望月の歌は道長自身が記録したの?
いいえ。この歌は道長の日記「御堂関白記」には載っておらず、ライバルの藤原実資の日記「小右記」に記録されています。皮肉にも、道長を快く思わない人物の記録によって後世に伝わりました。
摂関政治はその後どうなった?
道長・頼通の時代が摂関政治の頂点でした。その後、天皇家が権力を取り戻す「院政」が始まり、やがて武士の時代(平氏・源氏)へと移っていきました。
最終更新日:2026年6月3日
── 了 ──
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