「小田原評定」が無駄議論の代名詞になったのはなぜ?
長時間議論しても結論が出ず、結局籠城を選んで滅亡した史実から、「いつまでも結論の出ない無駄な会議」の比喩として使われるようになりました。ただし当時の家臣たちは存亡をかけた真剣な議論をしていたため、現代の用法は戦国期の人々への一種の不当な評価とも言えます。
秀吉軍22万は、当時の日本のほぼすべての大名が動員された巨大軍。北条軍5万も決して少なくありませんが、4倍以上の兵力差は籠城戦でも厳しい。さらに各支城が次々陥落することで補給・連絡が遮断され、心理的圧迫が決定打となりました。
史実として記録されています。城兵だけでなく女性・子供が城内に籠もっており、上杉景勝・前田利家軍の半日攻撃で全員が殺害または自害(滝に身を投げた者も)。「八王子城の御主殿の滝」は今もこの悲劇を伝える場所です。小田原合戦のもっとも痛ましい一場面。
秀吉が家康を本拠地・三河から離して影響力を弱めるためとされます。当時の江戸はまだ寒村に近く、関東移封は「左遷」のニュアンスもありました。しかし家康は江戸を整備し、関東の豊かな農地と交通の要衝を活かして勢力を蓄え、結果的に天下人となります。
時代順に巡るなら山中城(最初の戦闘)→早雲寺(秀吉本陣初期)→石垣山一夜城(秀吉本陣本格化)→小田原城(籠城戦の中心)→氏政・氏照の墓(終焉の地)。1〜2日かけて巡れば戦の全貌を体感できます。