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追われながら信仰を守った——蓮如と寛正の法難
1465年、比叡山延暦寺の僧兵が本願寺を破壊し、蓮如は親鸞の御影(肖像画)を抱えて逃げ回った。6年近くに及ぶ逃亡生活の中で、蓮如は各地の門徒ネットワークの絆を実感し、本願寺再興への強い意志を固めた。逆境を逆転の原動力に変えた宗教者の物語。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
なぜ比叡山が本願寺を攻撃したのか
6年間の逃亡生活
越前吉崎での逆転
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
西本願寺御影堂——延暦寺の迫害を逃れた蓮如が再建した本願寺の法灯が今も続く浄土真宗の総本山
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
「誰かに追いかけられながら、それでも信仰を続ける」。これはどれほど大変なことでしょうか。
蓮如は実際にそういう体験をした人物です。1465年から約6年間、命の危険を感じながら日本各地を逃げ回りました。
なぜ比叡山が本願寺を攻撃したのか
まず背景を説明します。
当時の日本仏教界では、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)が絶大な権威を持っていました。延暦寺は「山門(さんもん)」と呼ばれ、仏教界の頂点に君臨していました。
一方、蓮如が率いる本願寺(浄土真宗)は急速に信者を増やしていました。農民・商人が「御文」を通じて組織化され、延暦寺の支配に服さない独立した宗教勢力として成長していったのです。
これが延暦寺には脅威に見えました。
東本願寺——蓮如の迫害からの逃亡と復活の物語は、浄土真宗の精神的な原点として今も語り継がれる
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
1465年1月、本願寺が破壊される
1465年(寛正6年)1月、延暦寺の僧兵が京都の大谷本願寺(おおたにほんがんじ)に押しかけ、「本願寺の教えは邪義(間違った教え)だ」として堂舎を壊しました。
蓮如は親鸞(浄土真宗の開祖)の御影(肖像画)を抱えて、その場から命からがら逃げ出しました。当時、蓮如は50歳。
6年間の逃亡生活
東本願寺本堂——蓮如が6年の逃亡の末に越前吉崎で再起し、爆発的な布教に成功した精神の継承者たちの礼拝堂
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
逃げた蓮如は、琵琶湖(滋賀県)周辺の門徒の家を転々としながら隠れ住みました。
漁師の家に匿われたこともあったとされます。「信仰の指導者が漁師の家に隠れて延暦寺の追っ手を避ける」——想像しただけでも、その緊張感が伝わってきます。
この逃亡生活は約6年続きました。
逆境が強みになった
しかしこの体験が、蓮如を強くしました。
逃亡中に各地の門徒(信者)たちに匿われ、助けてもらう体験を通じて、蓮如は「全国に広がる門徒ネットワーク」の強さを実感しました。
「この人たちがいる限り、本願寺は必ず復活できる」という確信が生まれたのです。
越前吉崎での逆転
1471年、蓮如は北陸の越前(福井県)吉崎に移り、新しい道場を開きました。
これが大成功でした。北陸の農民・商人が爆発的に入信し、わずか4年で10万人を超える門徒を擁するほどになったとされます。
「追われた地で、逆に爆発的に成長する」という皮肉な逆転劇の始まりです。
この北陸での成功が、後の加賀一向一揆(農民による約100年の自治)の基盤となりました。
ゆかりの地を訪ねよう
蓮如ゆかりの地として西本願寺(京都)は欠かせません。また蓮如が大坂石山に建てた道場が後に石山本願寺となり、その場所が現在の大阪城の地です。
蓮如のゆかりの地一覧から、ゆかりのスポットを確認してみてください。
よくある質問
比叡山はなぜそんなに権力があったの?
延暦寺は京都を守護する「鎮護の寺」として朝廷・武家から特別な地位を認められており、大きな荘園と組織を持っていました。僧兵(武装した僧侶)を持ち、時には暴力的な行動も行っていました。
蓮如は本願寺をどこに移したの?
各地を転々とした後、最終的に大坂石山(現在の大阪城の場所)に「石山本願寺」を建立しました。これが後に信長との「10年戦争」(石山合戦)の舞台となります。
一向一揆って仏教徒の反乱なの?
一向一揆は浄土真宗(一向宗)の門徒が組織的に武装・政治行動をとった運動です。特に「加賀の一向一揆」では門徒が守護大名を追い出して約100年にわたって自治を行いました。
最終更新日:2026年6月2日
── 了 ──
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