JR「京都」駅から徒歩15分
京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル
Google Map で開く ↗
穢れ祓い・心身の浄化・邪気払い。禊(みそぎ)や護摩の伝統に連なる。
御祭神「阿弥陀如来」のご神徳に由来
浄土真宗本願寺派の本山で世界遺産。親鸞聖人の教えを受け継ぐ総本山として、東に東本願寺、西に西本願寺が並ぶ。国宝の唐門は「日暮らし門」とも呼ばれる桃山様式の傑作で、飛雲閣は金閣・銀閣と並ぶ京都三名閣のひとつ。御影堂と阿弥陀堂は巨大な伽藍を形成し、全国の門徒の信仰の拠点となっている。書院には「虎の間」など狩野派の障壁画も残る。京都駅から徒歩圏内に位置し、親鸞聖人報恩講をはじめ年間を通じて各種法要が営まれる。
文永9年(1272年)、親鸞の曾孫・覚信尼が大谷廟堂を建立したのが起源。蓮如が教団を大拡大し、元亀元年(1570年)からの石山合戦で織田信長と10年間抗争。天正19年(1591年)豊臣秀吉が現在地を寄進。慶長7年(1602年)徳川家康が東本願寺を分立させた。御影堂・阿弥陀堂は世界最大級の木造建築。世界文化遺産。
関連記事
— 6
慶長7年(1602年)、徳川家康が兄・教如に烏丸七条の地を寄進して東本願寺を分立させた後、堀川六条の地を本拠とする本願寺は「西本願寺」として准如が12世法主を継承した。准如は父・顕如から後継に指名されながら兄・教如との確執の末に義絶問題を経て本願寺を継いだ人物で、天正19年(1591年)の大坂天満からの移座を経て、堀川の地に壮大な御影堂・阿弥陀堂の伽藍を整備した。現在まで続く浄土真宗本願寺派(お西)の体制は、准如の代にほぼ確立されたといってよい。
天正19年(1591年)、豊臣秀吉は本願寺11世・顕如に現在の堀川六条の地を寄進し、天満から最後の移座を果たさせた。石山合戦の敗北後、紀州鷺森・和泉貝塚・天満と流転を重ねてきた顕如にとって、京都の地で新たな本山を構えることは悲願であった。顕如は移座の翌年、天正20年(1592年)に50歳で入寂。この寄進地こそ、現在も続く西本願寺の礎となった。顕如の生涯最後の大事業であり、石山退去から11年を経てようやく本願寺教団は恒久の本拠を得たのである。
承元元年(1207年)、師・法然とともに念仏弾圧(承元の法難)に遭い越後に流罪となった親鸞は、赦免後も関東で20年以上布教を続けた。帰洛後の弘長2年(1262年)に90歳で入寂。曾孫の覚信尼が大谷の地に廟堂を建立し、これが本願寺の起源となった。親鸞の教えは「悪人正機」「他力本願」に集約され、在家の凡夫こそ阿弥陀仏の救済の対象であると説いた。現在、浄土真宗は日本最大の仏教宗派で、本願寺派(西本願寺)だけで約10,500の末寺を擁する。
本願寺11世・顕如は信長に大坂石山(現在の大阪城付近)の退去を迫られ、元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)まで10年間にわたる「石山合戦」で激しく抵抗した。敗北後、顕如は信長の許しを得て京都に移座し、現在の西本願寺の地を得た。
天正14年(1586年)、秀吉が現在地を本願寺に寄進し、壮大な伽藍の造営が始まった。唐門・飛雲閣などは秀吉の命で移築・建立された桃山文化の精華で、秀吉が浄土真宗を保護したことで西本願寺は全国的な教線拡大の拠点となった。
📱
アプリでもっと便利に
GPS自動スタンプ・オフライン閲覧・推し活機能